ドストエフスキー『虐げられた人びと』読書会(2024.11.22)
2024.11.22に行ったドストエフスキー『虐げられた人びと』読書会の模様です。
解説しました。
私も感想を書きました。
根源悪の噴出
(引用はじめ)
許しの反対物どころか、むしろ許しの代替物となっているのが罰である。許しと罰は、干渉がなければ際限なく続く何かを終わらせようとする点で共通しているからである。人間は、自分の罰することのできないものは許すことができず、明らかに許すことができないものは罰することができない。これは人間事象の領域における極めて重要な構造的要素である。これはカント以来「根源悪」と呼ばれている罪のまぎれもない印である。私たちは、公的な舞台でこのような「根源悪」のめったにない噴出を目撃しているのに、この「根源悪」の性格は、その私たちにさえよく判っていない。私たちに判っていることは、ただこのような罪は、罰することも許すこともできず、したがってそれは、人間事象の領域と人間の潜在的な力を超えているだけでなく、それが姿を現すところでは、人間事象の領域と人間の潜在的な力が根本から破壊されてしまうということだけである。(ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫P.377)
(引用おわり)
カントが晩年の宗教論の著作で「根源悪」という概念を解説しているそうである。ネットで調べたら「ナルシシズムの衝動に従おうとする生まれつきの傾向」ということだそうだ。ちゃんと著作を読んで解説したいのだが、簡易な検索で、一応「根源悪」の定義を記しておいた。
ワルコフスキー公爵にはナルシシズムしかない。彼は、明白な罪を犯しているわけではない。ニコライを業務上の横領で告訴して、彼の社会的な名声を失墜させ、賠償金をせしめたことは、訴訟の手続きに則って合法的に行われており、犯罪行為ではないのである。
彼の行為は、金が欲しい、社交界で成り上がりたい、というナルシシズム的傾向から、行われており、裁かれるべき明らかな犯罪行為はない。
しかし、彼はネリーの母とその家族を破滅させ、さらには、ナターシャとその家族をも破滅させようとした。これら家族の人間関係の破綻の原因はただ一つ、罰することもできなければ、許すこともできないような、ワルコフスキー公爵の内面の巣食っている「根源悪」である。
ネリーの母は最後まで、ワルコフスキー公爵を糾弾する意思を持って死んでいった。ネリーに託したお守りの中の遺言状には、彼女が彼を絶対に許さない、という強い意思が表明されている。ただ、ネリーに何かしてくれるのであれば、最後の審判において、ワルコフスキー公爵を許すように、神に願う、とされていた。つまりは、神に許し請うが、彼女自身では許さないというのである。ネリーの母の赦す力の欠如が、ネリーの死の原因である、とドストエフスキーは描いている。
ワルコフスキー公爵は、ナターシャやアリョーシャの若く純粋無垢な心情をぶち壊した。ニコライとナターシャの素朴な親子の愛も破壊している。これは恐ろしいことだ。しかし、彼の「根源悪」の噴出は、誰にも尻尾を掴ませないので、裁くことはできないのである。「根源悪」のカラクリに精通していはずの世間通のマスロボーエフですら、公爵にはお手上げである。
ワルコフスキー公爵は、本作において、「根源悪」を噴出させただけで、何も報いを受けずに終わっている。ここがこの作品の欠陥だと思うが、ワルコフスキー公爵がアップデートされたキャラである『罪と罰』のスヴィドリガイロフは、自分が愛する人間(ドーニャ)に愛されないという報いによって、自殺している。彼は、人間を愛する能力がない。愛されることもない。孤独の中で死んでいったのである。赦すことも罰することもできない彼の根源悪は、底なし沼のような孤独を彼に報いとして与えたのである。蜘蛛の糸ともいえる一縷の望みであったドーニャの愛する力に望みをかけたスヴィドリガイロフは、彼女に拒否され地獄に落ちていった。哀れであった。
私たちは「根源悪」の噴出を、目の当たりにして生きている。罰することも赦すこともできないような人間事象は、今回の兵庫県知事選のゴタゴタに現れている。専門家は誰もあの現象を的確に解説できない。真実が何であるかわからないまま進んだ選挙戦の過程で、一つだけ確かなことがある。人間関係が大きく損なわれ、分断が露わになったことである。
あれこそ「根源悪」の噴出である。
私は、再選された斎藤知事がワルコフスキー公爵に重なった。彼のパワハラ疑惑は、それは罰することも許すこともできないレベルの軽い罪だったのだろう。しかし、彼の存在を媒介として彼を支持する人、彼に反発する人の間で、「根源悪」の噴出を目の当たりした気がする。支持者と非支持者の間で、人の意見に耳を傾けない自己正当化が繰り返され、今も続いている。
思えば、そのような現象は今に始まったことではなく、私は安倍政権の8年にも、この「根源悪」の噴出のような現象を、ずうっと目の当たりにしていた。安倍さんもワルコフスキー公爵のような人物だった。亡くなった後も、安倍さんが、どういう人物だったか、私の中で輪郭を結ばない。まだどこかで生きているのではないか、とすら思う。罰することも赦すこともできない曖昧な政治家だったが、人々に犬笛を吹き、好悪で熱狂させていた。
「分断」というかたちで人間関係が根本から破壊されるような政治的現象が、日本社会でこの10年続いている。それは、ナルシシズム的傾向を深めて、今だけ、金だけ、自分だけを突き進む人間の根源悪が、毒ガスのように社会に溢れかえっているからである。その毒ガスの中で、みんなが分断の危機に瀕した生活を送っている。ナターシャやアリョーシャ、ニコライのように。
ドストエフスキーの小説は、こういう「根源悪」の噴出とそのモヤモヤ現象をうまく表現しており、恐ろしい。
(おわり)
読書会の模様です。