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谷崎潤一郎『二人の稚児』読書会 (2022.11.25)
2022.11.25に行った谷崎潤一郎『二人の稚児』読書会 の模様です。
参考記事
瑠璃堂について
瑠璃堂は、織田信長の比叡山焼き討ちから逃れたお堂だそうです。
谷崎は、瑠璃光丸のこもった法華堂を瑠璃堂になぞらえたのかもしれません。
「椿堂」黄金色の千手観音
森鷗外の『山椒大夫』みたいだった
谷崎の初期作品は、都市生活者の匿名性と、その匿名性を担保に繰り広げられる性的倒錯の快楽を追求していた。しかし、本作では、もはや題材が枯渇したのか、中世を時代背景にした、仏教的な世界観を展開していた。
私は、学生時代に、芥川龍之介の古典を題材にした作品(『羅生門』『地獄変』など)が好きで、その流れから、谷崎の『少将滋幹の母』を読んだ。内容は忘れてしまったが、それは、古典的かつ衒学的なレトリックを撒き散らしながら、母への思慕を情緒豊かに描いたような作品だったと思う。
今回、『二人の稚児』を課題図書にして読んでみたわけであるが、そもそも、私は、何故日本にはお稚児文化があるのか、非常に興味があって、選んだのである。しかし、この作品には、その手がかりになるような話はなかったので、次回の課題図書、森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』に持ち越すことにしよう。
仏門におけるプラトニックラブでも描いているのかと思ったが、そうでもない。
浮世に埋没して、快楽を貪っている千手丸のことを羨ましく思う瑠璃光丸が、羅生門の下人よろしく、寺を捨てるのかと思いきや、一途に修行し続けることを決意するに及んで、あれ、とおもってしまった。
てっきり、おのれのどうしようもない本性に開き直り、堕落して終わるかと思っていたので、がっかりであった。
ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』において、ゾシマ長老の遺体が腐臭を放ったことで、動揺したアリョーシャの信仰への懐疑を描いていた。世間の人は、信心深い人間が堕落するのを喜ぶという悲しい現実を赤裸々に暴いていた。
だが、谷崎は、瑠璃光丸をアリョーシャとして描きたかったわけでもないし、仏の道への懐疑を描きたかったわけでもない。信仰をテーマにしているのではなく、仏教を単に題材として、選んでいることがバレバレである。
とはいうものの、文章は流れるようで、レトリックも教科書的な技術力があり、手堅い作品だったが、それだけの作品だった。
森鷗外の『山椒大夫』に似てるような気がする。あれも、古典を題材にとりながら、とくに教訓めいたもののなかった。
(おわり)
読書会のもようです。
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