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梶井基次郎『冬の日』読書会(2022.12.16)

2022.12.16に行った梶井基次郎『冬の日』読書会の模様です。

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青空文庫 梶井基次郎『冬の日』

朗読しました。

私も書きました。

蕉風バックビート

 

ウィキペディアの梶井基次郎関連の記述は、有志による長年の研究の成果の反映していて、読み応えがある。コアなファンが、現在も梶井基次郎を読み継いでいるのが知られて、いつも心強い。

wikiによると、タイトルは芭蕉七部集の『冬の日』に由来するという。この作品には、芭蕉の俳諧の「わび・さび・かるみ」の精神が、裏拍で響いている。歳末の銀座で「何をしに自分は銀座に来るのだろう」と自問自答するのは、芭蕉の俳句「何をこの師走の市をゆく烏(からす)』にインスピレーションを受けたセリフだと、これもwikiにあった。

 

ねぐらを持たないカラスから転じて、定住せずに旅を続けるものを「旅がらす」という。漂泊の詩人も旅がらすに違いない。堯も、おのれを漂泊の詩人になぞらえる誘惑に駆られているが、それは、紋切り型のセンチメンタルに堕す。

センチメンタルに堕すのは、人が情緒に溺れやすいである。そこで、「かるみ」という蕉風のコンセプトが本領を発揮する。情緒を排する俗っぽい見立てから、雅に通じる詩情を引き出すために、「軽み」を媒介にするのである。

 友達のつかう湯のみ茶碗から、衛生観念が乏しいのか、友達甲斐をこしらえるというセンチメンタルなのか、というフリースタイルダンジョンふっかけて、「来ないとひがむかい」と、ツルハシで煉瓦塀を一撃するような強烈なカウンターパンチを食らったっとき「そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか快かった」と思うのは、ここに蕉風のバックビートが成立したからである。

蕉門十哲の内藤丈草の「水底の岩に落ちつく木の葉かな」がレファレンス(参照)されて、いきおいセンチメンタルに堕しがちな堯の精神状態が、なんとか持ちこたえるのである。

 

かるみの実践である風狂というのは、俗の中から聖なるものを浮かび上がらせる手段である。しゃれこうべを抱いて歩いた一休宗純に風狂のはじまりを見るそうだが、その風狂をば、堯は、おのれに対して戒めている。

 

(引用はじめ)

 彼は窓際に倚(よ)って風狂というものが存在した古い時代のことを思った。しかしそれを自分の身に当て嵌(は)めることは堯にはできなかった。

 (引用おわり)

 

ロシア文学にはユーロジー(юро́дивый)と呼ばれる佯狂者が登場する。『カラマーゾフの兄弟』のフェラポント神父みたいな存在である。俗から聖なるものを引き出す佯狂者は、瀆聖から神への絶対的な帰依へといたるあまりにもキリスト教的な飛躍である。

堯が歳末の銀座でしゃれこうべを抱いて歩き、通行人を挑発するような禅僧的な佯狂ムーヴに及ばなかったことが、ロシア文学と日本文学の深い深淵をうかがわせる。

病身を倦んでも、信仰には飛躍しなかったのは、日本文学の伝統の血脈が、芭蕉に連なる系列として、梶井基次郎の血痰の中にも流れているからだろう。

 

(おわり)

読書会の模様です。



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信州読書会 宮澤
お志有難うございます。