谷崎潤一郎『異端者の悲しみ』読書会 (2022.8.19)
2022.8.19に行った谷崎潤一郎『異端者の悲しみ』読書会のもようです。
「ドストエフスキー的なテーマが散りばめられながらも」
街中でぶつぶつ独り言をいってたら、やべーやつだと思われる。しかし、独り言を言ってる人は結構いるし、そういう人にあえば、この人は独り言を言う人なのだと私は思う。
現代では、独り言の原因は、発達障害とか、定型・非定型とかいう専門用語で、一応は解説できるのだろう。
章三郎は、無意識に独り言がでてしまい、自分の頭が大丈夫なのか不安になる。独り言だけではく、便所で白楽天の聯想の反復強迫に襲われたり、死の恐怖から酒を煽ったり、情緒不安定を募らせている。
ここからナルシシズムと貧乏をこじらせて、金貸しの婆さんを斧で殺すというところまで飛躍すれば、章三郎は、立派に『罪と罰』のラスコーリニコフである。妹の「西欧の魔女の持っていそうな冷静な瞳」は『カラマーゾフの兄弟』の車椅子のリーザを思い起こさせた。家産を傾かせた親父は、スネギリョフに似ている。
このように、ドストエフスキー的なテーマが散りばめられながらも、異端者章三郎は、せいぜい、友人から5円借りて借り倒すだけであった。結局、何も事件を起こさなかった。
全般的にドストエフスキーの作品のシーンの寸借詐欺のような描写が続くのであるが、貧困問題から、社会構造の矛盾にメスを入れることもなく、救済としての信仰の問題に至ることもなく、章三郎の行き着く先は、マゾヒズムであった。
なにか起こるような小説が書けなかったのだ。
幸徳秋水の大逆事件は1910年、この小説の発表は1917年(大正6年)である。
小説をもって社会を分析的に描くのは、難しい時代であった。
明治末期から大正時代は最初の社会主義大弾圧の時代である。
谷崎が意図したように、反自然主義であると思う。ゾラの『実験小説論』によれば人間を条件づけているのは「時代・環境・遺伝」である。自然主義文学は、この三つの条件から人間関係を描く社会科学的手法をとっている。
このような条件から社会科学的に人間を描き、世間を批判すれば、社会主義的傾向の作品になってしまう。
変態性欲やマゾヒズムのテーマで韜晦しなければ作品を発表し続けることのできない時代だったのである。
芥川龍之介には、自己韜晦に徹することのできない悲哀と煩悶が感じられるが、谷崎にはそれがない。
自然主義的作品を書けるだけの思想的、哲学的理解は、谷崎先生には、あったのだろう。
しかし、自己韜晦の中で耽美主義マゾヒズムこそを作家としての生きると決意したのだろう。
それが、異端者の悲しみなのだ。
(おわり)
読書会の模様です。