自由な人
子育てにおいて、我が子があまりにも自由気ままな生活をしていて心配しない親は少ないだろう。
「自由」への憧れはありつつも、ある程度の制約の中での「自由」。つまり、「やることはやってね!」と。
1、義務教育の中の自由
日本で生まれ育つという環境では、小学生以上になると「自由」というのは想像がつきにくい。
義務教育というのは、学校に行く「義務」という意味ではない。
しかし、どうしても「やることはやってね」というのは、「義務」を果たした上で、「自由」が保証される。
そのためその「自由」は解放感の「自由」で、「テレビやゲームを思う存分できる自由」になりがちではないか。
自分の生き方を「自由に選択できる」の「自由」というのは少ない。
2、自由な人
東京五輪の新競技、サーフィン男子で五十嵐カノア選手が銀メダルを獲得した。
日本人の両親の下、アメリカの西海岸で生まれ育った。幼い頃からサーフィンをして、12歳から良い波を求めて、単身オーストラリアなど外国へ向かう行動派。
「カノア」はハワイ語で「自由な人」。
そんな自由な人が、酒は飲まない。ファストフードも口にしない。会見では「海をきれいにして、きれいな水でエンジョイできるように」と次代を思って環境整備に取り組む夢を語った。
自由に生きることは、美しいものを見いだすことに繋がるのか。そしてその思いは次代へとつながる生命のサイクルを自然のうちに感じているのかもしれない。
3、聖書の中の自由
日本人には馴染みが薄いかもしれないが、聖書には人間の生きる知恵が書かれている。
人間はかなりの程度,自分の将来を方向づけることができます。神の「声に聴き従い」,つまり神のおきてに従うというう選択をして,『命を選ぶ』。
この「神のおきて」というのは、例えば「禁断の木の実を食べてはいけない」。つまり、善悪の知識の木から実を食べてはいけないということ。
「こうしなければいけない」、「これは良いこと、あれは悪いこと」など決めてはいけない。この善悪の判断をすることは「自己神格化」で、これこそが罪だと言っている。
その神のおきてを守り、自分の感覚を頼りに「自由意志」を持つ。
神は,神の言葉どおりに行動するよう強制したりはなさいません。むしろ,次のように温かく呼びかけておられます。「ああ,あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように……なるであろうに」。
人間は本来、自由である。この自由があるからこそ、人は人のことや地球のことに思い馳せられるのではないだろうか。