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葛飾北斎 / メトロポリタン美術館
「世界が明日終わりになると知っていても私は今日リンゴの木を植える」 byマルティン・ルター
子どもたちは学校で学ぶ。その時間と経験は、「未来」という未だ来ていない時のため?
大人たちは働く。家族のために、社会のために。そしてお金という価値を生んだり、人の役に立つ価値を生み出す。
退職した高齢者は暮らす、何のために?
私が治療をさせてもらっている、脳梗塞後遺症で言語障害が残る元建築士の方の作品。これは人を喜ばすことだろう。
宗教改革を始めたマルティン・ルターの言葉として知られる
「世界が明日終わりになると知っていても私は今日リンゴの木を植える」
という言葉。
諸説あるようですが、明日、世界が本当に終わりを迎えるならば、今日、リンゴの木を植えたところで何の意味もないはず。それでもこの言葉が多くの人の共感を呼ぶのは、「たとえ意味がなくとも、今の自分にとって意義のあることを私はやる」。
「私」にとって「意義がある」こと。
今、あまり価値を生み出さなくとも、お金や人の役に立っているという実感として意義を感じなくても、「私はやる」。
子どもたちの学びは、今すぐ役に立つことではないかもしれない。
だからこそ、「私」にとって「意義」があることを見出せる環境を提供したい。
「私」にとって「意義」があることは、「今」または「目に見える形」で価値を生み出していないように見えるかもしれないけれど、その没頭する姿勢に裏打ちされた作品は、1人、2人に影響すれば、その後は累乗で影響するだろう。
学校でそれぞれの「私」にとって「意義」のあることをする学びを提供できないなら、せめて「意義」を見出せる時間だけでもくれないか?
宿題を課されなければいけないほど、人間は怠け者なのか?