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映画『アマデウス』-「良き創作-fictionと良き師-mentorとは何か」※考察のための批評

はじめに-本記事の目的と概要

なんとも古典派の作曲家たちが好みそうな道徳的テーマである感は拭えないが、今回は1984年に公開された映画『アマデウス』の批評を行い、表題に掲げたテーマについて考察する。本作品は、宮廷作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)の毒殺説を「創作-fiction」として採用、脚色したピーター・レヴィン・シェーファー(1926-2016)による戯曲『アマデウス』の映画化作品である。自分なりの表現方法を模索する一介の学徒として、本題材は自身が創作する際の現実性(リアリティ)の問題についても向き合える格好の機会と捉えている。また、主人公の宮廷作曲家アントニオ・サリエリ(1750-1824)の愛憎に塗れ、嫉妬と狂気に苛まれる姿が、我が竹馬の友の語る体験談と被って目に映り、後半の主題である「良き師-mentor」とは何かについて、思いを巡らさずにはいられなくなった次第である。

※追記
執筆方法の模索と論述の訓練を兼ね、本記事は当初①批評➝②感想➝③考察の順で構成する予定だったが、批評の段階だけで想定以上に長くなってしまったため、①の批評だけ投稿する。後日、本批評を踏まえた上で、自由な感想や表題の「良き創作-fictionと良き師-mentorとは何か」についての考察を掲載する予定だ。なお、批評の構成については以下の通りである。まず、序論にて本映画の基本的情報とあらすじを簡潔にまとめる。続いて、本論にて作品の良し悪しを列挙・指摘し、必要に応じて参考文献を交えながら根拠や出典を示す。最後に結論として、これらの意見を総括する。


批評パート

序論:本映画の基本的情報とあらすじ

チェコ共和国出身の映画監督ミロス・フォアマン(1932-2018)による1984年公開の時代劇映画。同年にアカデミー賞8部門(作品・監督・主演男優賞他)を獲得した逸品。既述の通り、ピーター・シェーファーの戯曲『モーツァルトとサリエリ』を改訂・脚本化することでプロットが構成されているが、1830年、かのロシアの詩人アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)によって執筆された同名の小劇にインスピレーション、着想を受けている。(これは偶然だが、最近読んだ小説にもこの詩人が登場し、今更ながら彼の名声と才能に驚嘆を覚える。)

時は19世紀初頭、舞台は吹雪舞うオーストリアは首都ウィーン、殺しの罪の赦しを請い自殺を図る老人の名は、かつて皇帝ヨーゼフ二世に仕えた宮廷音楽家アントニオ・サリエリその人であった。一命をとりとめた彼の下へ懺悔の告解を聞くために参った神父を前に、彼はとつとつと、そして次第に狂気を帯びながら、天才モーツァルトの生涯を語り始める。神より圧倒的な才能を授かりながら、35歳という短い生涯を送った天才音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯を、才能に嫉妬し恋焦がれ狂うサリエリの視点から描く陰謀と葛藤の物語。


本論:映画『アマデウス』の功罪

少々強い表現で危険だが、あえて功罪として断罪を試みたい。本作の功績と罪過には、それぞれ次の三点が挙げられよう。

功績(この映画の素晴らしいところ)

  1. モーツァルト音楽のドラマチックさを示す分かりやすい選曲

  2. 「サリエリ」「モーツァルト」役の俳優たちの圧倒的演技と発明

  3. 「サリエリ」を通じて描く、才能をめぐる人の感情の二面性への照射

日本におけるモーツァルト研究の第一人者とされる海老沢敏を始め、様々な音楽家や研究者による巧みな論評や興味深い分析が既に多数存在する。したがって、ここでは一庶民が気付いた範疇の発見を謙虚に述べると、一つ目に気付いて驚いたことは映画内で多用されるモーツァルトの音楽が、ドラマチックで激しく変化する展開の物語とも非常に親和性が高いということである。例えば映画の冒頭、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」序曲の不穏で不気味なシーンからサリエリの自殺未遂で衝撃的に本編が始まるその瞬間、バックで流れる曲は「交響曲 第25番 ト短調 K.183より 第1楽章」である。この他にも、終盤のクライマックスであるサリエリと共同で「レクイエム 二短調 K.626より コンフターティス」が徐々に作曲されていくシーンは、完成と臨終が近づいてくることをこれ以上ないほど明確に示しており、ラストの「ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466より 第2楽章」で送られるシーンは美しく優しいピアノとオーケストラの調べが却って謎の不可解さの演出に成功していると言えよう。

二つ目はメインキャストたちの演技力、とりわけ、サリエリ役のF・マーレイ・エイブラハムとモーツァルト役のトーマス・エドワード・ハルスの二人による貢献が大きい。彼らでなければ、たとえ題材にモーツァルトを扱ったとしても、ここまでの感動は起き得なかったであろう。本作は晩年のサリエリが過去を回想する形で物語が進行するが、折に触れて現在の時制に戻る度、刻々と変化するサリエリの心情や表現力からは彼が本物のサリエリとしか思えないほどの説得力を持っている。楽譜を読んでいるシーン、そしてそれを回想しながら語る最中も流れる音楽が、表情や仕草から彼の頭の中で鳴り響いているとはっきり分かるほどの没入感がある。俳優の演技に釘付けになる機会は滅多にないと考えると、これは必見の場面だ。
また、モーツァルトの演技に関して画期的な、それでいて挑発的な甲高い笑い声は発明とさえ評価できる。神童として幼い時より天才、自身の才能に絶対の確信を持ち、天真爛漫、自由奔放な若造だが、軽薄で下品でだらしないスカトロジスト(糞尿嗜好者)な放蕩息子の面を持つモーツァルトという、見事なまでにサリエリと対照的に描く狙いとしては最適解だったと言えよう。

そして三つ目は、モーツァルトの曲の素晴らしさは無論、アントニオ・サリエリという音楽家を大衆に紹介したという点だ。学術的には「サリエリとモーツァルトの敵対」という題材自体に新規性はなく、その意味ではリメイクにあたる。しかしながら、誰しも一度は感じたことがあるはずの劣等感や嫉妬、他者の才能や幸福に対する破滅願望と自己軽蔑といった現代でも理解されやすい精神分析的アレンジを加えることにより、「天才に対する凡庸なる者の復讐と悲劇」という主題が受け入れやすくなっている。しかしこれは同時に、次に挙げる『アマデウス』の罪と密接に繋がっている。

罪過(この映画のまずいところ)

  1. 史実の大幅な脚色・誇張に対する誤解を招きかねない注意喚起の不徹底

  2. 撮影上の都合による作り込みの甘さと妥協が残る時代考証や背景描写

  3. 復讐や葛藤を経た末の「サリエリ」の才能に対する答えの中途半端さ

冒頭でも何度も断った通り、この映画は脚色という名の意図的な史実の無視を前提に創作されている。これは時代劇物では散見される珍しくもない現象だが、史実らしきものとの相違点は少なくないので、以下に認知した限りの例を並べてみる。時間の都合上、信頼に足り得る出典は確認できた例から追記するため、あくまで参考まで。

  • サリエリによるモーツァルト毒殺説は、オーストリアからイタリアが失われた政治状況のなか、成功したイタリア人に対する貶めを込めたスキャンダラスな噂

  • 「レクイエム」のコンフタ―ティスやラクリモサはサリエリとの共作ではなく、モーツァルトの弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーによる補筆

  • 前半、サリエリが皇帝ヨーゼフ2世に献呈したモーツァルト歓迎用のマーチは、演出のための設定(劇中、モーツァルトに目の前でアレンジされて「フィガロの結婚より もう飛ぶまいぞ、この蝶々」の曲調に変化する。)

  • ウィーンの皇帝の宮殿で、当時7歳のマリ・アントワネットに6歳のモーツァルトが無邪気に求婚した逸話は噂

  • モーツァルトに「レクイエム」作曲を注文したのはサリエリではなく、フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵による匿名の依頼

  • サリエリが敬虔なカトリック故に独身主義者のように描がれているが、実際は既婚者

この他にもまだまだ例はあるかもしれないが、問題はこれらの演出のための脚色を、映画内ではっきりと明言・忠告していない点である。冒頭はお決まりの無断転載・複製禁止の文言が流れるが、エンドクレジットまで確認してもプラハの撮影施設やロケーションへの謝意が述べられているだけだ。

二つ目は、撮影上の妥協として言語を挙げる。基本的な会話や演技は英語で行われるが、イタリア語のオペラを作りたいと訴えるシーンである矛盾が目立ってしまう。それは、このシーンは厳密にはドイツ語で会話されるはずだという矛盾である。また、一部の舞台装置の技術が現代的過ぎて、現実感(リアリティ)が薄れてしまう点が挙げられる。具体的には「ドン・ジョヴァンニより 騎士長の場」における火炎放射器や「魔笛より 復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」におけるスモークなど、火気や煙の制御である。1780~90年頃の18世紀末における特殊効果としての照明は蝋燭や石油ランプが一般的だったため、可燃性の資材で建てられた劇場内で映画ほどの裸火を放出できるとは考えにくい。煙に関しても同様に、十分な量の確保と高度な制御ができたという文献は確認できなかった。したがって、これらは完全に視覚上のスぺクタルとして割り切った演出と捉えるのが適当であろう。ただし劇場内の撮影に関していえば、実際にモーツァルト本人が公演を行った場所のシーンもある。例えば「ドン・ジョヴァンニ」の撮影はチェコ・プラハ国立エステート劇場という建物であり、1787年10月29日に初演が行われている。ウィーン市内の街並みや市場、皇帝の宮殿でのシーンなど、撮影地のほとんどはチェコのプラハで再現されているのだが、因縁浅からぬこれらプラハの地が、映画内の迫真性やオーラを表現するために貢献していると言えよう。

そして三つ目、これは物語の結末についての指摘である。映画のラスト、事の全容を語り終えたサリエリは、去り際に神父に触れてこう告げる。

"I will speak for you father. I'll speak all of mediocre people in this world. I am the champion. I am the patron saint."
「あんたも同じだよ。この世の凡庸なる者の一人。私は その頂上に立つ凡庸なる者の守り神だ。」

映画『アマデウス』02:54:03-02:54:16

そして車椅子に運ばれながら守護聖人よろしく、凡庸なる者たち(精神患者たち)を赦して去るサリエリと、不滅の名声を手にしたモーツァルトの笑い声がこだまして物語は幕を閉じる。題材のチョイスと演出にこだわった人間ドラマの結末にありがちだが、モーツァルトが死ぬまでの展開がメインコンテンツであって、最終的なサリエリの考えや心情など、事後の変化についての描写は約2分と非常に短い。見せたい内容の比重に偏りがある故に、読後感のすっきりしない終わり方となっている。如何ほどか平たく言えば、こういう具合だ。「いろいろと葛藤があったけれど、結局死んで、はい、お仕舞い」と。


結論:見る人の教養と姿勢が問われる成功した商業映画

本映画はサリエリやモーツァルトのことをよく知らない一般大衆に対して誤解を招きつつも、人間ドラマ仕立てにすることでこの上なく分かりやすい入口として紹介した。「楽聖」や「アポロン的」モーツァルト像を払拭し新しい姿として描くべく、芸術上の特権を存分に振るい終始徹底して歴史認識に対し不誠実を貫いた。結果、演出の重視に注力することができ物語的にも商業的にもドラマチックな成功を収めたが、「誤」楽映画としてのレッテルも貼られた。


参考文献
ネイサン・ブローダー 編(1979), 松前紀男 訳『モーツァルトの交響曲ト短調K.550』, 東京都:東海大学出版会, 121p.
海老沢敏(2000), 『モーツァルトとルソー-魅せられた魂の響奏 続・私の新モーツァルトクロニクル』, 東京都:音楽之友社, 370p.