過去の私の俳句を斬る⑥
昔の自分と、俳句を通じて対峙する。
俳句が少しわかるようになってくると、他人の句の表現が気になって、「こうしたらもっといいのに・・・」とウズウズしてくる、という経験をされた方は、私のほかにもいるんじゃないでしょうか。
そんなとき、自分の句なら、容赦なく手を入れられて、誰も傷つけないので、やりたい放題です。おススメ。
行く春や大あくびして恥もなし 新治(平成27年)
季語は、行く春。
眠たい眠たい春の間に、さんざん人前であくびをし続けて慣れてしまって、春が終わるころには恥じらうこともなくなった、とうことでしょう。
しかし、その因果関係みたいなところが、いかにも理屈っぽくて、今の私は好みではないです。
また、恥も、の「も」が、「恥すらも」無くしてしまった、というような意味を帯びていて、思いが強く現れすぎているようです。
俳句では、感想や心情を直接述べず、モノに語らせるのが良いとされます。この句の中には、具体的なモノが不足していますので、そこを補って、心の内を代弁してもらうのが良さそうです。
例えば、
行く春や職員室の大あくび 新治(令和3年)
などでしょうか。どことなく川柳的ですが。
あるいは
行く春や猫のあくびの無音なる 新治(令和3年)
のように、第三者的視点に切り替えるか。
いずれにしても、春→眠い→あくび という連想は、近すぎるような気がしますね。他の季語を合わせたほうが得かもしれません。