【モネ展・睡蓮のとき】
【モネ展・睡蓮のとき】
【本当の世界】
息ができない。このあと、どう行動して良いかわからない。そこに突然現れた本当のモネの表現する世界だ。
あの時ふと、後ろを振り返った瞬間、私は息を呑んだ。信じられない事がここでは起きている。これが本当の天才の作り出す世界だと一瞬で確信し、脊髄反射で立ち止まる。
触覚を取られた蟻のように、私は距離感を見失ない進むべき方向が得られなくなる。
同じ場所で、ぐるぐると周りの作品を見渡す。
気付くと私は、人の列から離れて、作品からも離れた会場の真ん中に立ち尽くしていた。
〜2日前-2024.12.9.月曜日〜
私は何年かぶりに上野駅を訪れた。
ふと先日にネットでモネ展の事を知り、仕事の休みの次の日の月曜日だったら、昼間動けるなと。改札を出ると離れた先に上野動物園の看板が見える。
モネ展「睡蓮のとき」は国立西洋美術館。
大きなポスターもあり、恐らくここだなと思いつつ、違和感に包まれる。閉館日はひと通りチェックしたはずだった。しかし、どう見ても正門に見える門が固く閉ざされている。私は念の為、「国立西洋美術館」の表記を横目に建物の横に回り込む。イベントの気配はない。
たまに、いつもと違う事をすると、本当に驚く様な失敗をする様になったのは、いつの頃からだろう。不安の中、改めて閉館日をチェック。思いっきり、スマホの画面には本日閉館日と書かれている。
何度もチェックして来たのに。なぜ。
期間中の何日かは臨時の閉館日が数字で表記されていたが、その1番初めに「月曜日」と書かれていた。
〜15分前-2024.12.11.水曜日〜
水曜の昼下がり。おそらく比較的、混み合わない日だったのだろう。それでも、上野の国立西洋美術館は入口が見える前から多少の列がで来ていた。
館内の展示は順不同に見て回って良いとのことではあるが、やはり皆、何となく列に着いていく感じで、順番に展示作品を見ていく。
美術の時間に習う様な有名な画家の絵を直に見るのは、これが殆ど初めてだった。
みんな、興味津々に、巨匠の力強い筆使いを少しでも理解しようとするかの様に、出来るだけ近くで見ようとするので、人の流れはとてもゆっくりだ。
「石田ゆり子」さんの解説を聞きながら、少しづつ、この機械の使い方にも慣れてきた。知識がないので、抜粋された要約解説はとても有難い。
モネは、同じ景色を全く同じ画角で描き始め、朝霧から夕焼けまで、その光の営みを何枚かの作品にする事があるらしく、同じ風景なのに色味がちがう。
水面に映る森の木々と、そこに生えている木々のどちらが主役なの私にはかわからない。しかしやがてモネは、ほとんど水面に映るものだけを表現した作品を発表する様にもなる。
そんな感じで解説を聞きながら、ゆっくりと人の流れはに身を任せて進んでいく。それなりに時間はある。せっかく来たのだから、ゆっくり絵画を楽しもう。
【見えている光の世界】
印象派というのだろうか。
近くで見ると、描かれている物の多くに輪郭はなく、淡い色の重なり合いで表現されている様だ。
近くで一見すると、黒い溜まりのような物が一本の線の上に乗っている。これは陸橋を走る蒸気機関車だ。しかし、絵に顔を近づけてみると、それは分からない。
でも、多くの人が有り難そうに、絵に触れない程度に至近距離で見ているので、そういうものかと、私もそうする。もしかしたら、これらの作品に近づいてずっと凝視したら、この絵の秘密が分かるのかも知れない。きっとみんなそうやって見ているのかも知れないと思った。
15分ほどで少し集中力が切れた。
ふと周りを見渡すと、壁には順番に作品が展示されていて、少しづつ奥の部屋へと続いているが、広間の真ん中には、所々に椅子が置かれていて、そこに座っている人達がいる。
ああ、疲れたのかな。高齢の方も沢山いるし。こんな偉大な絵に囲まれて、ソファーに腰掛けて休憩するなんて、とても優雅だ。なんなら、フローレンティーン・ターコイズのティーカップにロイヤル・ミルクティーを淹れてくれないか。
などと、思いながら、会場を見渡し、見て来た絵の数と、残りの絵の数を見える範囲で確認して、およその残りの滞在時間を計算する。どうやらお茶を飲んでる時間は無さそうだ。と、か、妄想を、、し、て、、、えっ?、、えっ、なにこれ。
何が起きた、何だこれは?
平衡感覚や距離感が麻痺してるのか?
振り返った先の絵が、密度を増して迫ってくる様だった。衝撃で息が苦しい。あの陸橋を走る蒸気機関車から、その力強いピストンが動く、鉄がぶつかる音、勢いよく上がる蒸気の熱をみた。
まるで昔「僕」が、その街に住んでいて、その景色を何度も見ていて、その忘れた記憶が突然、蘇ったかの様な感覚。
ここまでの十数分は何だったのか。私は何を見てきたのか。
その絵は、実は近距離で見る様に描かれてはいないのではないか?約5〜10メートル離れた距離で見た時の、蘇る様な鮮やかさ。
モネには何か普通の感覚とは違う感覚で、彼だけが特別に「見えている光の世界」があるのではないだろうか。
とにかく驚きの感動を得て、一度、誰も立ち止まっていない広間の真ん中に立ち、周りに並べられたモネの絵を一つづつ見直す。これだ。この距離だ。少なとも私にとっては。
「黄色いアイリス」を見て自然と涙が溢れる。その意味はわからず。ただ、心が揺れる。まだ、「睡蓮」に辿り着いていないのに。
私は一度、来た道を引き返して、改めて一枚目からモネの作品と向き合う。
【モネの世界】
巨匠モネ。もう世界中の芸術界隈で語り尽くされて来た筈の事を、知識のない私が気まぐれで美術館にて鑑賞し大袈裟に感想を述べる。
何度も色々なモネの作品を見て来た人や、美大で勉強して来た人にとって、ただただ、稚拙だと思われるだろうけれども、私はあえて書きたかった。
かつて、学生の時にドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいた時、私は灰色の世界に入り込んだ。カミューの「異邦人」を読みながら、とにかくギラギラした太陽の下に汗にまみれた命を感じた。内容はもう全く覚えてないけど、その強烈な印象は、その時、学生だった私が感じて、今もまだ覚えている。
芸術の力、作品の力とは本質的にそういうもので、その良さを教えてもらってから触れるものではないと思っている。もちろん勉強してから改めて触れる事による発見は大切だし、その学びの場は貴重だ。それでも、知らないからと、語る事を許されないならそれは芸術ではないと思っている。
「睡蓮」はやがて、そのほとんどが水面に映る姿だけ描かれる様になっていく。彼が見えていた世界はもしかしたら、私が見えたものよりもずっと美しく輝いていて、それを描き留め、残す事への情熱を消す事が出来なかったのかも知れない。
後半生のモネは緑内障により、光の感じ方が変わってしまう。それは同じ景色を描いても明らかで、赤い色が土の様に見えると嘆いたモネの筆使いもまた、荒々しさを増していく様にみえた。
それでも、描くことをやめない。その力強い使命感にも似たものに、人間の生きる事への生命力、未来へ繋がる強さを感じざるをえない。
時に、すごい能力と意思を持った人は、極致を目指し、危険もかえりみず終わりなき究極への道へすすでいく。
「もうその位で充分じゃないか。」という周りの言葉は彼らには聞こえない。
その人並外れた意志の力と能力の探究に畏敬の念を感じる。そして、その営みに人類の未来の「光」を見ている様にも感じる。
そんな世界をモネは見せてくれる。