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ロッテへ

「若きウェルテルの悩み」を読みました。もう何回も読んでいるのだけど、光文社古典新訳文庫から初版を翻訳したもの、わたしが何度も読んだ「若きウェルテルの悩み」とは違う版が、新しい訳で出たというので、喜んで読みました。とても面白かった。もう今更250年前の小説について(250年前!)ウェルテルがどうなったか、書いたからってネタバレってことはないとおもうけど、最後はほんとうにかっこよくて、この行為をかっこいいって言うことは危険だから書き方を変えると、つまりウェルテルのこのかきぶりがあまりにもかっこよくて、もし読んだことのない人がいたらおかしな偏見を入れず、読んで欲しいという気持ちがまだあります。ウェルテルはあの日々、考えて考えて、はっと思いついたんじゃないかという気がするんです。あの最後の一行を思いついたからやるしかなかったんだろう、あの一行を現実にするために行為に及んだのだとか、思わないことはないのです。言葉にはそういう力があるから。

<ここでゲーテ「若きウェルテルの悩み」を読むこと、今はなしているのは酒寄進一訳 光文社古典新訳文庫について>

で、あのね、わたしは訳者の酒寄進一さんのお話を、どこか東京のイベントか何か(ごめんなさい、あまり覚えていない)を配信で見る機会があって嬉しかったのです。遠くて遠くて現場に行けないのに、家で見ていい、そういう時代がきたこと、いまだに信じられない時があるのだけど。
でもその時に、質問コーナーみたいなところで信じられない言葉を聞いてしまって、でもそうだなとも思って、黙っていたらきっといけないんだと思って、なぜなら言葉には力があるから、だからわたしはもう書かないつもりでいたnoteを開けたわけです。
つまりこういうことです。「ウェルテルがああなったのはロッテにも責任があったのではないですか?思わせぶりというか……」そこで酒寄さんはこうおっしゃったのです、ちがったらごめんなさい、あんまりびっくりしてちょっと記憶がおかしい、こう言ったのです、それはぼくも思った、後書きにはちょっと書いたんだけど……みたいなことを。
信じられるロッテ? これが2024年。わたしは信じられない。知ってるけど、信じたくない。ロッテがわかっていて銃を渡したんじゃないかみたいなことまで、言ったような、言ってないかも、あれ?これはウェルテルが言ったんだっけ?
ねえ、ちょっと待って、そうじゃない、そうじゃないよ、よく聞いて、すべてはロッテがそうしたんじゃない、ウェルテルがそう、思おうとしただけだよ!
ロッテは僕に気があると、ほんとうは愛していると、だけど無理なんだと、ウェルテルはそう思わなければ生きていけなかったんだよ!死ねなかったんだよ!だからそう、手紙の中で彼はずいぶん幸福で不幸だったんだよ!つまりそういう物語を生きたんだ!

小説家の小川洋子が「物語の役割」という本の中で言っています。他にもいろんなところでそう言ってらっしゃったとおもうけれど。これは小説とは何か、というお話だけれど。

 たとえば、非常に受け入れがたい困難にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語をつくっているわけです。
 あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてと言うふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていいく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。

「物語の役割」小川洋子

長い引用になりましたが、このあとが本当にすごいのでぜひ読んで欲しい。というかここでわたしは小川洋子という小説家のことをちゃんと見るようになった。小説に書かれてある「当前」について立ち止まるようになった。これは本当に余談ですが、でも小説の読み方が変わりました。

話を戻すと、わたしはねえ、もしかしてロッテがじゅうぶんなお金を持っていて、そういうことが許される世の中だったら、というかそういう選択肢があって、そうしたいとしたら、だけど、アルベルトを兄として、ウェルテルを弟として、一緒にずーっと生きていけたら、良かったんじゃないかと思ったりもしたんだよね。ロッテが真ん中で三人で腕を組んで、丘にね、登ったりね。そうして二人にわかること、三人にわかること、ひとりだけにしかわからないことをそれぞれ考えたり、しゃべったりして。本当にはロッテがどう生きたいのか、ウェルテルの手紙の中からは読み取れないと思ったほうがいいのかもしれないけど。そういう展開だったとして、ラストが違うかっていったらウェルテルに関しては同じなんじゃないかって思ったりもするけれど。そう、そこなんですよね、ああ、可哀想なウェルテル。

まあでもこのたとえばの物語はわたしが救われるっていう話なんですよ。だから言葉にして、「思わせぶりなロッテ」という言葉に傷つくかもしれない誰かの耳におんなじ大きさで入ればいいなと思うから、書き残す。あなたがそう思いたかったのはわかるよ、とウェルテルに直接言うとしたら酷ってもんです。でも読者には言っていいとおもう。「思わせぶりなロッテ」そう、思って欲しかったのはウェルテルだよね、わかるよって。それから、もしもウェルテルが女でロッテが男だったら「相思相愛と思い込んだウェルテルが」って最初から、読みはしなかったですか?ということを。

わたしはほんとうにこの物語が好きらしい。もう一度最初に戻った時レオノーレへのウェルテルの感想が効いてくる。誰も憎めない。人生だ。ゲーテは偉大だ。初版がすてきだ。初版を訳してくださって、出版してくださって本当にありがとう!小説はこうでなくっちゃ!






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