生きることは時間だろうか、という深夜のメモ

生きてるってどういうことだろう、みたいなことを考えるのがいま一番楽しいわたしのおもちゃです。生きてるってなんでしょうね。

心臓や脳が止まったら死ぬ、といことはわかるじゃないですか。でも止まったそれを再び動かしても、生きたり、生きなかったりするじゃないですか。でも動いている時に機械で動かしてやればもうしばらく生きているじゃないですか。

でも継続すればできて、途切れたらだめなんて規則みたいです。誰かがダメとかいいとか決めてるみたいです。きこりの斧で切り倒されかけた木を立てて元に戻せば生きてて、全部倒したのを乗せたら死んでいるなんて、そんなの、そうあるというよりもそう決めたことでしかないみたい。

生きるってどういうことでしょうか。わたしは時間のことじゃないかと思っていて、でも、だとしたら、時間ってみんなに共通ではないんじゃないか、っていうのがなんとなく、ひっかかっているところ。

ひとりひとつの時間でしょうか。みんなが大きい時間の川にいるんじゃなくて、ひとりひとり別の流れだったら、規則のことがすっきりする気がするけれど、わたしは生きていて、その中にいるから証明はできないってことになるでしょうか。

別に証明する気はなくて、そんなこと考えるなんて頭がおかしいよって言われたら、表向きにはすぐひっこめるくらいのこと。だってどっちでもいいから。でもちょっと正直に書くと、やっぱり考えている。内緒ですよ。怒られるならね。

精神とか、たましいとかって、いまちょうどよい言葉がみつからないんですが、そういうもの、それについて疑っている訳じゃないんです。心臓が止まること、脳が止まること、それが死ぬことじゃなくてそれによって最終的にやってくるものこそ死、って感じるじゃないですか。

もう会話ができない。機械が繋がっている。病院にいる。親族を待つだけの時間。でも手はあたたかく、こちらの声は聞こえているかも知れない、というのね。そういうとき、生きてる、と思う。この人はまだ生きている。

そしてそれは順番に起こる。心臓が止まる。脳が止まる。そうしてやがて、その人は死ぬ。そういう感じ。感じの話。

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