鴨川の沈丁花と木屋町で出会った女【エッセイ】
──だって、わたしバカだから
と卑屈になって拗ねてみた。
本エッセイは、ぼくが、「わたしバカだから」という京大生に会ったときのはなしです。
きみはいつも口癖みたいに、「わたしバカだから」と口を尖らせ卑屈になる。
どうやらきみには、自分がバカだと決めつけてしまうだけの判断材料があるらしい。
大学の偏差値が低いだとか、高校の時の成績だとか、性格もちょっぴり抜けてるところがあったりだとか。
たぶん、そんないくつかを統合すると、「きみはバカである」という事実がきみのなかで浮かび上がってくるので、じぶんがバカだと決めつけているのかもしれない。
──京大生のきみが、バカだとすると、世間なんて全員バカってことになっちゃうんじゃ……
なんて言ってみると、きみは否定する。
そして付け足す。「わたしが最下位のバカだから」
どうして、こんなに意味のわからない順位ができあがってしまったのか。
変なのって、笑みが溢れる。
どうやら、これは資本主義の仕業らしい。そこに、新自由主義的価値観が相乗して、こんなにも、いびつな感情の容れ物ができあがってしまうのだと思った、うえには、うえがいる。
それななのに、そこに<値段>が宿るから、そこには、価値がともなって、競争にさらされる。だから、比べる。比べることが意識の中に組み込まれる。そんな今の社会のおかしさに対して、変なのって笑みが溢れてしまう。
おまけに、SNSの鳥たちたちが、さまざまな美談と成功談をぼくらに運んできやがる。
比較、比較、比較。できあがったのは、卑屈、卑屈、卑屈。
競争は可視化されて、おとなりの芝はやっぱり青く見えちゃうわけで、かと言ってすっぱい果実ともいかないわけで、ついつい比較の悪魔と手を取り合ってしまう。いけないとわかっているのに、その悪魔となれなれしくしてしまう。
競争に勝つのは気持ちいいからね。駆け抜ける疾走感で、敵をなぎ倒していくゲームのような達成感がある。
結果として、盛り上がる。
加熱するオンラインゲーム熱みたいに発火する。
これが資本主義の仕業の内訳である。
資本主義の負の部分をいかにも露悪的に言ってこじつけているにすぎないのだが、それでも、あんないびつな感情の容れ物ができあがっていることに資本主義が関わっていることは、まず間違いないだろう。
だとすると、いまぼくの目の前にいる自称人類最下位の京大生のいびつさは、資本主義の搾りかすのようなものなのだろうか、と思ったらなんだか愛らしく見えてきてしまった。
そして、ぼくらは付き合った。
きみはいろんなことをぼくに教えてくれた。
レポートの書き方だったり、上手な文章の書き方だとか、センスだとか哲学だとか、ファッションだとか、音楽だとか。世界のカラーバリエーションが増えたように、人生がたのしくなった。
そうか、人生は別に楽しんでいいんだということを、頭のわるいぼくにたくさん教えてくれた。鴨川のほとり、「あー鴨さんいるよ」とはしゃぐきみの笑顔は今でも時々思い出す。
ぼくは、きみの声に耳を傾けながら、うなずいてぼくはこっそり学んでいた。ぶっちゃけ、今もきみの言葉をパクってる(笑)
きみの自己肯定感がうんと低いこと。ときどきその膝を刻んで、滴る赤い鮮血に安堵していたこと。睡眠薬がなければ眠れないこと。メンタルがずたぼろになっていたのに、毎週カウンセリングに通っていたこと。
そんなあれこれがあったが、そんなネガティブたちも「愛」というオセロですべてひっくり返した。
思い返せば、どれもたいせつな思い出になっている。
でも、あの時、ぼくはけっこうくるしかった。
だけど、きみのことは大好きだったので、きみを恨むわけにはいかない。
きみの歪さについては、うんと理解しようとしていた。結果として、ぼくも苦しくなった。やはり、汚いボールをキャッチしてキレイなボールにするみたいなコミュニケーションをし続けるのは、すごくエネルギーが必要だった。それが苦しいことをどうしてもきみに伝えることができなかった。そして、じょじょにきみから遠ざかった。幻みたいに雲散霧消した。
風の噂で、きみは就職したときいた。
世界有数の外資系企業に就職したのだという。
今も戦っているらしい。
競争に勝って、勝って勝って勝ちまくっているんじゃないだろうか。
かっこいいねぇ。でも、無理しないでね。
きみはすこし無理をしようとしすぎるところとそれをなしえるだけの超人的な能力があるので、偉業を成し遂げてしまうところがある。
あ、忘れないでほしい。
きみの頭は悪くないし、きみの心根は優しい。
ありがとう。沈丁花が好きなきみへ。