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愛想のカツアゲ【エッセイ】

31歳にもなると、後輩という存在ができる。
後輩というのはだいたい、「そっすねえ」「笑笑笑」みたいにやたらと愛想がいい。お世辞なんかも言ってくれる。
ありがたい。
ありがたいのだが、ときどき疑問に思う時がある。


これ、おれカツアゲしてんじゃねえのかな
と。


というのも、ぼくはかなり人間関係にいろんな苦労をしてきた性質である。そんな性質が、いい反応のカツアゲをしてるんじゃないかという猜疑に連続している。

だからまず、むかしの自分を少しだけ詳らかにする。

初対面の人に「思い切った顔してますね〜wwワンピースのキャラみてぇじゃないですか」みたいな暴言に近いあいさつかまして、相手が愛想笑いをしているのを、「笑ってる」なんて理解して、そのネタで掴んだみたいに、ぐいぐい攻め込んでしまうような人間だった(いや、せめて過去形にさせてくれ。今はそうじゃないと、信じたい)。
そんな話を挙げ出しゃ、枚挙にいとまがない。


困ったことに、上記のようなディスを別に失礼なことを言っているようという自覚がなかったのだ。

だからまぁ、初対面の人からは驚かれることが多かった人生だ。

人との距離感というものが、もう本当に分からなくて、すごぉぉく遠くにいるつもりでいたら「なんかよそよそしいよな!もっとこころ開いてくれよ」なんて言われるし、そう思ってこころのエンジンを加速すると、「近い近い近い」なんて嫌悪感を示されたりするわけで、まぁこういう人間というのは、あなたの身の回りにも一人くらいはいると思うので、そう言うやつだと理解していただきたい。

だが、
これじゃダメだ!なんて思ったりして。
あれは忘れもしない、24歳の冬。京都の冬は寒いのだ。
当時、仲良かった友だちに「おれは本気でじぶんを変えたいんだ。
だから、おれのだめなとこを100個あげてくれ」なんてお願いして、そのすべてを箇条書きしてスプレッドシートで管理して直そうとしたことがある。

ちなみに、その友人は最近ベルギーの大学院を修了して日本に帰国したらしい。ひさびさに会いたいなぁ。あだ名は、ワーミーダビットソンである。なんでこんなあだ名なのかは不明だ。

友だちからは、あなた(山門文治)はこれこれこういうシチュエーションのときに、こういう行動取るのがNGみたいな感じで、事細かに教えてもらった。

☑人前で爪を噛まない。
☑肩のフケが目立つから黒い服は避けた方がいい。
☑話聞いてる時(特にその人の話が長い時)、貧乏ゆすりをしない。
☑箸の持ち方が変。
☑大学の教授とかと街ですれ違った時はあいさつしない。
☑目上の人相手にあいづちする時、「へいへい」「ほほう」とか言わない。
☑人と目線が合ったら逸らさない。

挙げだしたらきりがないし、
ぼくにも羞恥心というのがあるのでこのくらいに留めておきたい。


これだけ挙げれば、あなたは思うことだろう。
「ああ、こいつやばいやつだ」って。
じぶんでもそう思う。

でも、ある意味では仕方がない部分、つまり、理由(わけ)があったりもする。
そりゃ、6年もニートをしていたら、そういう不適合者はできあがるのは必然的な帰結ではないだろうか。(開き直り)

だが、24歳の誓いとスプシによる管理はわりかし徹底的にやったつもりである。
来る日も来る日も、些細なコミュニケーションを紙とペンつかって再現してみて、「もしこの瞬間に戻れるならどんな言葉をかけたほうがいいだろうか」という自己改造の鍛錬の日々である。
まさに、若かりし頃のネテロ会長ばりに正拳突きを繰り返しては祈った。

そうすると、どうだろう。

いまだに人との距離感というのは、あまりわからないけど、少なくとも初対面の人にイヤな印象を与えてしまうという失態はおかさないで済むようになった。
いや、未だにたまにやらかすけどさ(笑)
でもかなり減ったんだ。

その証拠に、この年齢になって知り合った人には、この話を打ち明けると、あははと笑わて「だとしたら山門さん、すごい成長を遂げてますよ!」なんて励ましてもらえるようになった。

むかしのぼくを知る人には、「うんうん、たしかに文治さんは変わったよね」なんて頷いてももらえるようにもなった。

すると、誕生日にくるLINEの数が、
ずっと前はリクちゃく(幼馴染)ただ一人だったのが、今では14人くらいからいただけたりする。
出会えてよかったと思える人の数が年々増えている。
多い人からすれば、少ない数かもしれないが、ああいう出発点からのココなら大したもんだと思ってしまう。

と、まぁ31歳になって、やっとこさ、社会に出ても問題ないような外付けの人格というのをつくり出せた。(ほら、すぐ調子に乗る)

はなしはもちろんこれでは終わらない。
冒頭の話を、すとんとここに持ってくる。

最初の話なんだっけ?って読者のためにここでリフレイン。後輩の愛想いい反応がカツアゲなんじゃねえかって話である。本エッセイは、この話から出発している。

じつは山門文治は外向けの人格を手にしたことを引き換えに、勘繰りさんを招き入れてしまったのだ。

勘繰りさんというのは、この反応ってどのパターンだ?みたいな観察者の視点に始まり、愛想よくしているのは、後輩としての役割を全うしているのであり、本当はどうなんだ。いや、この愛想のよい反応をカツアゲをしてしまっているのではないか。「いやいや崩していいよ」ほんとごめんね。気を遣わせてごめんね。こんな隘路に袋小路。アイロニカルな突貫工事。どこか修理すりゃ、別のどこの欠陥が見つかる。

そう、セルフモニタリングによるフィードバック機構は一定の成果を得たように見えたが、必要以上に「相手の立場に立つ」配慮が過剰作動してしまう代物になってしまったのである。

相手は後輩だ。もしもいい反応しないと後が怖いと思うかもしれない。ワントーン声が高くなった。同期同士でのかかわりは意外と高圧的な奴なのか。ということは、先輩と相対することで、カツアゲしているのかもしれない。気分のいいコミュニケーションの接待という名の「残業」を押し付けてしまってはいないだろうか、申し訳ない。

まえよりマシにはなれたつもりではあるけれど、
この疑心暗鬼の制御装置はどこにあるのだろうか。

さいごに

ここまで読んでくれてありがとうございます。
もし、この話を読んで面白いと思ってくれた人に
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ぼくは、これからこういう活動(文章を書く仕事)で本気で食っていきたいと考えています。
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