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悩むための観光地──多摩湖

日々の忙殺に、いつの間にか悩むということを忘れてしまったすべての現代人に届けたい。
とっておきの観光地がある。


通称、多摩湖。
正式名称は村山貯水池。

都心から41分。
東京都東大和市。東京郊外のベッドタウンだ。
そして、ここは……
















00:ぼくの故郷
なんです。

右は20歳の山門文治。10年前、うまく笑えない。左はリクちゃん。30年来の親友。


出身地を聞かれるとつい反射的に、となり町の名前を答えてしまう。
ひょっとしたら、あなたにも似たような経験があるのではないだろうか。

ぼくの故郷は、東京都東大和市という。
知ってる人のが少ないはずだ。
「え?どこ?」と聞き返されるのが、怖いからとなり町の立川出身ということにしてしまう。
虚偽や虚飾ではないので、悪意もなければ見栄もない。
単に伝わりやすい記号として、円滑なコミュニケーションのために立川だと答えるのだ。
これを「出身地の借用」と呼びたい。





──山門くんは、どこ出身なの?

東大和市ってところ。多摩湖って湖のほとりに住んでるよ。ここには日本一美しい取水塔があるんだ。湖とその周りの緑地は、四季を感じられる最高の場所さ。立川ってわかりますか?」







01:故郷に錦を
飾るんだ。

出身地を借用してしまうのはなぜだろう。
フロイトだったら、こんな風に言うかもしれない。

「出身地の借用は、地元にいた昔のじぶんの話をあんまりしてほしくないという無意識の願望が、こういう距離のとり方として表れている。これは逃避行動の一種。つまり、わかりやすい言葉になおすと、コンプレックスである」

出身地を借用をしてしまうのはコンプレックスのためだ。これが全員に当てはまるとは思わないけど、少なくともぼくには当てはまってしまう。フロイトもさぞご満悦だろう。

認めよう。
ぼくには、故郷にいい思い出なんかほとんどない。
じぶんのことが大嫌いで大嫌いで仕方がなかったあの頃のじぶんをよく知っている場所だからだ。ぼくの場合は、それが10代と20代の前半の合計15年間くらいじぶんのことが許せなくて、大嫌いで仕方なかったので、
できることなら思い出しくない。苦しい過去と向き合わなければならないし。地元トークは、こころの暗部にうっかり触れてしまう。ただれた過去を見つめると、かさぶたを剥がすような痛みが想起される。
故郷という言葉は勝手にポジティブな言葉だと思っていたけれども、こうやって考えればいいことだけじゃない。むしろ、いいことの方が少ない。イヤなことも苦しいことも悲しいことも全部ひっくるめての故郷なのだ。


でも、
せっかくnote創作大賞に挑むんだったら、やっぱりじぶんの人生に縁深いテーマで、等身大のぼくの人生をぶつけたい。
じぶんの人生で一番縁深いテーマを考えたら、やっぱりこの地元の湖しかなかった。

1歳のころ、ぼくは東京の杉並区から東大和市に移り住んできた。
新宿から38分の東京郊外のベッドタウン。この市のシンボルになっている湖がある。多摩湖という。そして、今もこの多摩湖のほとりに住んでいる。

多摩湖はすごくいいところだ。

日本一美しい取水塔とも評される。
洗練されたデザイン。

紅い雪みたいな、
ヤマツツジの緋色の花びら。

のうぜんかつらの朱色には、
黒々とした蟻が蜜を求める。甘い。

春版キンモクセイと勝手に呼んでいる
スイカズラ。甘い香りはノスタルジー迷宮の入口。

闇夜で微笑む。ネムノキみたいな女に恋をした。
あと、こいつオジギソウみたいでおもしれー。

春には春の化粧をする。頬に桜をくっつけて。
堤防からみえるは、所沢と東村山。

卵を守るワタリドリ。夫婦で交互に温める。
令和のワタリドリは共働きだった。

うっかりすると吸い込まれそうな蒼だった。割れ目のように天道の筋がなまめかしい。空の青と湖の蒼を独り占め。











ごらんの通り。どこをとっても絵になるのがわかるだろう。湖畔の景色がみたい人はぜひここに訪れてほしい。すごく癒やされると思う。

ここは、五感で楽しめる自然の楽園だ。視覚だけじゃない。聴覚でも、触覚でも嗅覚でも。そしてもちろん味覚(※ヤマツツジの蜜には微量の神経毒が含まれます。)も。


でも、ここはただの観光地じゃない。
だってここは……
















02:ここは悩むための観光地
じぶんと対話できる湖

白いのはUFO……じゃなくて西武ドーム(笑)

じつは、こっちの多摩湖の方が馴染み深いぼくの景色なのだ。ぼくが見てきた景色だ。

「ニート期間何してたの?」
比喩でもなんでもなく多摩湖にいた。
実家には親がいるし、なんか言われるのもイヤだったので、とにかく多摩湖へ繰り出していた頃だ。
鬱屈とした沈黙の湖。湖面にはコンプレックスを映し出し、もがき苦しんでいた。「なりたいじぶん」と「なれないじぶん」との間にある終わりなきシャトルラン。やがて疲れ果てて、何もしたくない何にもなりたくない。すべてを拒むようになった。アパシー状態。ずっと水面のゆらめきを眺める空疎な人形。「死のうかな‥‥」何度つぶやいたことだろう。


ぼくは、この湖に悩むために足繁く何度も通っていた。
ちなみに、だから写真がこんなにあるのだ(笑)

足繁く通って何をしていたのかと、とにかくひたすら悩んでいた。
この湖の貯水量の4割はぼくの涙でできていると言ってもおかしくないくらい、ここで泣いたし苦しんだ。

ぼくの人生は最悪だった。生まれて最初の記憶は、爆竹のような破裂音だ。また父親の怒鳴り声だ。びくびく生きてきた。ずっと臆病で身体のリクちゃんの背中にくっついているようなずるい奴。ずっと何かに怯えていた。勉強はできる方だった。でも、中学入ってだんだん全くわからなくなっていった。成績はみるみる落ちていく。気づけば高校やめてみた。何にもならない。何者でもない。社会からの脱輪。怖かった。ニートになった。じぶんがかつて見下していた生き方だった。落下速度は早まった。親があきらめた。期待することをやめた。代わりに、誰も怒鳴らなくなった。代わりにおそろしい孤独が始まった。みんなぼくから卒業していった。誰もぼくに関わらなくなった。肥大化した自意識がぶくぶくと膨れ上がり、些細な言葉にグサリと傷ついて、血飛沫を上げてのたうち回る。痛い。痛いのに、こんなにくるしいのに誰も知らない。
ぼくは、ぼくなりに苦しかったのだけど、その時はまだ言葉で絡め取れていなくて、本当に苦しい思いをした。

23歳。「ああ、死のうかな……」

身勝手で短絡的だと思う。ぜんぶ自業自得だ。6年くらいニートしたので親にはずいぶん迷惑かけた。まぶたに浮かぶのは、母親。「もう生きててくれさえいればいいから…‥」と眉間にシワを寄せて涙を浮かべる顔を思い出すだけで、きちぃ。

だけど、ここは悩むための観光地
まずは、山門文治が曝け出す。

03:トトロとポケモン
と父親の癇癪

──ぼくと多摩湖クロニクル(1)

多摩湖:冒険を感じさせてくれる場所

生まれた直後に、自然の残酷な選別は始まった。
小児喘息やらアトピーやらで、数回入院して数回命の境をさまよったと聞く。
ずっと昔のことなので覚えていないが、それはそれは両親には苦労をかけたことだろう。ぼくには1歳以前の写真がほとんどない。

でも、なんとか。幸運なことに健康に育った。
そして、父親の塾が倒産した。大宮に大きな予備校ができて、そこに生徒をたくさんトられたらしい。それを機に、父親は怖い存在になっていった。同時に、昭和生の団塊世代の父親の徹底した勝利教育が始まった。
この世は弱肉強食だ。食うか食われるか、食う側に回れ。昭和の処世訓をインストールされてそうになった。どうしても生来の臆病な性格を受け入れられず、ぼくは人生で負け癖がついていった。へっぴり腰がよく似合う男になってしまった。できることしかやらなかったら、できることがなくなった。

この頃の多摩湖は、ぼくにとってトトロの森だった。
じつは、ぼくの生まれ故郷の湖は狭山丘陵地帯にある。この狭山丘陵地帯は、『となりのトトロ』のモデルになっている。所沢出身の宮崎駿氏が幼少期に駆け回っていた場所だ。※実際に、すぐ近くに八国山公園がある。トトロでは七国山と言われていた。

あのころは、トトロがいるんだと本気で思ってた。だから、たくさん冒険した。結局、トトロに出会えなかったが、後にかっしーというデブに出会う。トトロみたいなやつだった。
それと同時に衝撃だったのがポケモンだ。ぼくは、このときにぼくのインドアとアウトドアが分裂したらしい。
宮崎駿は外に出て遊べというが、ゲーフリはお外は危ないからおウチで冒険しなさいというし、どうしたらいいのかわからなかったが、そのときどきハイブリットに対応した。

空想の世界をふくらませることが好きだったのが、父親が烈火の如く怒るので、姉のお下がりの人形たちと遊ぶことは禁止された。男の子だからだ。

だから、人生は冒険だった。知らないことだらけで、楽しいことだった。
生きるって楽しい。知るって楽しい。ただし、父親にバレないように。
そういう場所。

夕方の不気味な多摩湖には、「赤いギャラドス」がいるんじゃないかという気持ちになる不気味さがある。
ちなみに、多摩湖の周辺には一家心中したとウワサの廃ホテルがあった(どうやらその事実ではないらしい)り、湖底にはその昔、村があり162戸が沈められたという史実がある。このような都市伝説的な禍々しい魅力を放つ側面もある点は強調しておきたい。

04:小悪党どもの
たまり場

──ぼくと多摩湖クロニクル(2)

多摩湖:現実逃避の場所

学校の成績はというと、下から数えたほうが早かった。下から数えて、1,2……ぼくがいる。
勉強なんか手につかない。
この頃、思春期のぼくは他人の持っているものが羨ましくて仕方がなかった。

あいつは顔がいい。あいつはコミュニュケーション能力が高い。あいつはスポーツができる。あいつには特技がある。あいつには光るものがある。あいつは女にモテる。

比べてばかりいた。なのに、失敗の連続だった。だから、高校をやめた。なんにも目立てなかったので、中退で目立ってやりたかった。そんなやり方でしか注目を集められない悲しい時期だ。

そんな時の多摩湖は現実逃避の場所だった。
深夜。誰もが寝静まった時間に、ぼくは2階の窓を開いて、カラダを小さく折りたたむ。窓から身を乗り出し屋根に着地する。一階の物置きが足場になっている。ジャンプすると家の庭。
この頃から夜中に家を抜け出すというぼくの奇行が始まった。玄関から出ると実家の飼い犬がギャンギャン騒いで親が起きてしまうので、そのルートを通らずに2階の屋根から出入りしていたのだ。

深夜の街を飛び出すと、いつもの街とは違って見える。抜け出す楽しさは、まるで村上春樹の「海辺のカフカ」の冒頭みたいにスリリングだ。
そして、多摩湖へ行くといるのは友達だった。ここで夜な夜な集会が開いている。悪党どもの集会だ。
と言っても、バイクやヤン車とは無縁のもう少し小規模の小悪党(親の命令に背いて、深夜に家を抜け出して友達とキャッキャと過ごしちゃう程度)。

この輪の中にいるときは、すべて忘れていられた。
学校で成績がダメなじぶんにも、
将来がさっぱり不安でダメなじぶんにも、
生きる意味がさっぱりわからなくて不安なじぶんにも、
出会わずにいられた。

でも、この小悪党たちは解散していった。高校を卒業する頃。
みんなに居場所ができると、誰も多摩湖に来なくなった。
そして、ぼくだけになった。

05:そしてぼくだけになった

──ぼくと多摩湖クロニクル(3)

多摩湖:孤独なぼくを知っていてくれる場所

リクちゃんも多摩湖には来なくなった。大学にバイト先に居場所ができたのだ。代わりに、リクちゃんは恵比寿や中目黒にいる時間が増えていった。
「多摩湖はたまにくるといいところだね」と彼は言ったけど、ぼくは毎日来ているよと思った。

この国では、高校を卒業するともう子どもではいられない。
子どもだった彼は、どんな生き方をするのか決定を迫られることになる。

ぼくが選んだのは、引っ込むことだった。
何もしたくない。誰とも会いたくない。

高校をやめた。いくつかのアルバイトをしたけど、どれも半年以上続かなかった。あるバイト先では、いじめのターゲットにされた。こんな性格だ。仕方ない。

実家に引きこもっていると、親と顔を合わせることになり、それはあまりにも気まずいので、よく多摩湖へ繰り出すようになった。
でも、今度は一人だ。誰とも待ち合わせをしない。

一人で決めて、一人で歩く。明くる日も明くる日も湖にでかけた。
昼夜逆転していたので、夜に多摩湖へ行くことが多くなった。
すると闇夜の多摩湖の方がずっとなじみの景色になっていく。

1〜5時が活動時間になると、ほとんど誰ともすれ違わない。
いよいよ、本当の孤独が始まる。

誰とも話さないことがあたりまえになって、誰からも必要とされないことがあたりまえになった。
ぼくなんかいなくても世界は回る。
ぼくなんかいない方が世界は円滑。
消えてしまえばいい。消えてなくなってしまえばいい。

じぶんを呪う言葉もあたりまえになっていった。
じぶんの価値が低いとは当然で、なんの才能もないし、努力すらできない欠陥品。

06:世界を大嫌いに
なってみたら

──ぼくと多摩湖クロニクル(4)

多摩湖:ひとりで悩む場所

こころがぺしゃんこになると、ぼくは抜け殻になった。
カウチに横たわる。自己否定の声がこだまする。

朝……ぼくらの布団を引っ剥がす。
無防備なぼくが眠っている。大嫌い。

太陽……寝させてくれないか。
布団を被って何も考えない。大嫌い。

夜……仕方なくうんざりする一日が始まる。
最悪な一日の始まり。大嫌い。

風……鬱陶しい。目に砂が入る。
涙があふれてくる。大嫌い。

雨……煩わしい。
靴の中がぐしゃぐしゃだ。ぼくのこころみたいで大嫌い。

空……もうわかったよ。
もう、そっちへ行こうかな。

愛……単なる依存。
用が済んだら、みんなどこかへ消えていく。

友だち……気休め。
誰もわかってくれない。

社会……競い合う場所。
弱肉強食。弱い肉には用はない。

人生……台無し。
ぼくはいらない部品。

生きる……からっぽな伽藍堂。
これ以上の続きはいらない。

死……区切り。
もうそろそろいいだろう。

世界のすべてを否定した。
手当たり次第、目につくすべてを否定した。

07:事実は変わらないが、
解釈は変えられる。

こころの中の大嫌いが膨らめば、押しつぶされそうになるかもしれない。
そんな時には、多摩湖にきてほしい。

ここは悩むための観光地。

事実は変わらないが、解釈は変えられる。
ぼくが、6年がかりで身につけた作法である。
ひとつの事実に拘泥していても、現実はなにも変わらない。
でも、ぼく自体は変われたし、考え方も変えられた。

08:晴燦々

──ぼくと多摩湖クロニクル(5)

すり減る踵はマイルの証

悩むってなんだろう。
歩くことだと思う。

多摩湖は、悩むための観光地。
ずっとぼくは湖畔のまわりを歩き続けた。
多摩湖の舗道を、堤防を、土を、芝生を、たくさん歩いた。
すり減った踵は、何千マイルも歩いた証。

京都には、哲学の道という路がある。
小川がせせらぐ清流だ。6月には、蛍の光がパラパラと見える。
小路に込められたネーミングのとおり、悩むための路である。
悩みがあるなら、気が済むまで歩けと街が言っている。そして、せめて、そこにはささやかな絶景が用意されている。

悩みが晴れるってなんだろう。
生き方が定まることだと思う。

人生はたまに、あっちの道とこっちの道、どちらの道も選べない。そんな隘路に迷い込む。どっちにしようか。うんと悩む。悩んな分だけ覚悟に変わる。だから生き方が定まる。

人生の一つひとつのピースがピタっとはまる。
ああ、ぼくはこのために生まれてきたんだなと気がつくこと。

ぼくがたくさん悩んだことは、だれかをホッとさせたり、だれかを安心させたり、だれかのこころに語りかける言葉になっている。

今日のぼくの命があるのは、だれかの言葉のおかげ。
だから、明日のだれかの命につながる言葉を紡ぐのだ。

09:渡り鳥

──ぼくと多摩湖クロニクル(6)

2024年。
ぼくは6年ぶりに東京へ帰ってきた。関西に6年住んで、帰郷した。
6年前に散々歩いた多摩湖だったが、久しぶりに多摩湖を散歩するとやっぱり楽しい。たくさん悩んだ痕跡の一つひとつを確かめた。痛々しいけどいい思い出。

堤防に人だかりができている。なんだろう。みんなが堤防から湖を覗いてなにかを見ている。
「なにを見ているんですか?」その群衆のひとりの親切なおばあさんが指を差す。「ほら、あそこ見えるかしら。渡り鳥が卵を温めているの」
スマホの望遠レンズを拡大した写真でやっと確認できる大きさの鳥がたしかにいた。おばあさんは続ける。「夫婦で卵を温め合っているの。ほら、来た来た」それから、おばあさんは鳥がコチドリということを、そしてあの鳥だけでなく、たくさん渡り鳥がこの湖にやってくることを教えてくれた。
「詳しいですね!なんでそんなこと知ってるんですか?」
あまりにもそのおばあさんが渡り鳥を詳しく饒舌に説明してくれるので、気になって聞いてみた。
すると、「受け売りよ!ここに集まってる人の中に、一人くらい詳しい人がいて解説してくれるのよ」。

毎年、この堤防からみえる小さな生態系をみんなで見守っているらしい。
あんなに歩いていたのに、知らなかったな。










真夜中……行き詰まったぼくらを優しく包みこんでくれる。
渡り鳥にとって、天敵が寝ている安心できる時間。






朝日……ダメなぼくらを何度もやりなおさせてくれる。
陽光は優しく進む背中を押してくれる。


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