幸せな親へと捧ぐ呪詛
本は読むタイミングが大事である。
幼少の頃に読んでいれば一生の宝になるかもしれない絵本も、中学生になってから読んだのではその幼稚さに一笑に付すだけで終わるかもしれない。
あるいは、小学生の頃に読めば1ページも読まずに放り投げてしまうような哲学書も、大学生の時分に読めばその後の人生の指針になるかもしれない。
そこまで大袈裟ではなくとも、より作品を深く味わえるタイミングはどの本にもある。ホラー小説においても、もちろんそうだ。
「死せるイサクを糧として」は、牧野修の「ファントムケーブル」に収録されている短編ホラー小説である。僕は高校生の時にこの作品を読んだ。今に至るも自分内ホラー小説ランキングで五本の指に入っている。間違いなく怖気が立つ、吐き気を催すような名作である。
しかしながら、自分の中で読むタイミングを外してしまった本でもある。十分面白かったのだが、何処か遠い国で起こった悲劇を眺めている気分で読了してしまったのは確かだ。
この作品を読むにあたって最も適しているタイミングとは、幼い子どもを持つ親になった時である。
物語は自分の不注意から一歳に満たない息子を踏み潰して死なせてしまい、自殺しようとするも失敗し両足を失うだけに留まり、もはや再びの自死すら選べず日々を漫然と生きている男の独白から始まる。1ページ目からこれである。暗く悲惨な話だ。そして読み進めても救いはない。
極力ネタバレはしたくないが、このままではどんな話か見当がつかないと思うので、タイトルの解説をすることで大まかな作品内容の紹介としたい。
タイトルのイサクとは旧約聖書の創世記に記述のある者の名であり、アブラハムが年老いてから神に授かった一人息子のことである。
そしてある程度成長した後、アブラハムの信仰を試そうとした神によって、自分の父に手により神への生贄に捧げられることになった子どものことである。
聖書中においては、アブラハムがイサクに手をかけんとした瞬間に、神に命じられた天使によりその殺害は止められた。神にその信仰を認められたアブラハムは、その子孫の繁栄を約束される。
しかし、ここで「死せるイサクを糧として」という作品のタイトルを思い出して欲しい。
この話はつまり、イサク(子ども)を殺すことに成功してしまったアブラハム(親)の救われない呪いの話である。
高校生の頃に読んだと書いた。その時、自分に子どもが出来て、一歳の誕生日を迎えたらこの作品を読みなおそうと無邪気に決めていた。
そして、少し前に数ヶ月ばかり遅れて、そんなことを決めた自分に悔やみつつ再読した。
主人公の絶望と、物語の終盤での決意に共感してしまった。そして陰鬱な気分になって、本を本棚の子どもの手の届かない場所にしまった。何だか呪詛に感染してしまうような妄想に囚われたのである。
得るものもあった。子どもが近くにいる時は、以前よりもっと注意するようになったのだ。それが、アブラハムを止める天使の手になることを祈るばかりである。
先に読むタイミングを外したと述べたが、しかしこの作品に関してはその方が良かったのかもしれない。
ホラー作品でタイミングが合うということは、その作品の呪詛をまともに受け取ってしまう瞬間に読むということである。
だから今まで長々とタイミングの話をしておいてなんだが、全然関係ない時に読むのも良いかもしれない。相当な強度の呪いを持った作品である。育児に大変な時期に、疲弊している状態で読むと当てられるかもしれない。
タイミングを外していたとしても、描写や発想力が優れており、引き込まれる傑作であるのには変わりない。
読む環境が整った時に、再読させるだけの魔力を持ちあわせている。
自身の精神状態や、タイミングを考慮した上で、是非御一読願いたい。