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南部密銭史 江戸時代の仮想通貨


南部密銭史の出版

江戸時代から明治初期まで南部藩を中心に主流通貨となった贋金(密銭)の 記録を纏めた「南部密銭史」は菅原秀幸氏が岩手出版から1986年に発表されました。
菅原氏は岩手県の軽米町史編纂委員のときに、江戸期の贋金造りの記録に 興味を持ち、記録を収集したと述べている。
事件の性質上、資料の殆どは取り締まる側の物で、製作や流通者側の資料は少なく、贋金造りの全体像をつかむ事に筆者は苦労したようだ。
 

「南部密銭史」の概要

 仙台藩は幕府から銅貨幣の鋳造を委託されたが、銅の産出量が少なく、 やむを得ず明和七年(1770)に「鉄銭」の鋳造に切り替えた。仙台藩鉄銭は 南部藩に流入したが、市場では鉄銭と銅銭は等価とは認められなかった。
さらに、南部藩では製造を請け負った鋳造職人たちは贋金を造りはじめた。次第に贋金は市中で流通し始め、遂に通用正銭と贋金と交換割合も存在するようになった。
 菅原氏は、贋金造りの動機として、天明の飢饉を発端とする平民の貧しさを取り上げている。そして贋金を「自家用銭」として、庶民の生活防衛の 役割を果たしたと評価して「密銭」と呼称している。
 

贋金と密銭

贋金造りは詐欺として使用する為に造るものだが、密銭は市場で流通させることで、通貨量を増やし、個人の収入も増やし、市場全体の収益も上げる 効果に役立った。しかし、やがて藩もその魔力に取り付かれていった。
 

贋金造りの様子

南部藩での贋金造りの製造規模は大きく、その様子が次のようだった。
(天明七年/1787/盛岡、茂兵衛という山師が、左草領沼の沢に蜜鋳銭座設けて、職人200人余りいた)。
これだけの制作規模だと、組織的な体制があったと思われ、とても貧しさによる庶民の行動とは思えない。
製造規模が大きければ製造資本も大きくなり、資金力が必要であり、さらに贋金を市場に流通させる為に大きな流通力も必要になってくる。市場を支配していた大きな資本力を持った者が贋金(蜜銭)造りに関わっていたのではないのか。南部藩では明治の始めまでの100年間は、正銭ではなく殆ど蜜銭のみが流通し蜜銭が通用銭として流通していた。

 藩が贋金造り

 南部藩は通貨制度と流通市場経済で、武士(政府)が介入出来なくなって いった。
 明治になると藩財政は明治政府に組み込まれて、藩独自の財政政策が出来なくなると、何と藩自ら贋金造りを始めてしまった。贋造したのは「明治二分判金」で、金貨の贋造は高度の技術が必要だが、募集する訳にもゆかず、贋金貨造りで入牢中の男に密造させた。金は金メッキとし、5万6千両の 贋金を製造したが、明治政府の取り締まりの探索が厳しくなり中止したという、笑い話の様な展開になった。
また、幕末明治の頃には優秀な技術を持つ者は、公営の銭座の技術指導者として雇われていったという。
 

蜜銭は仮想通貨

蜜銭は正式通貨ではなく、また裏付け資産を持っていないことから、利用者の需給関係によってのみ価値が成立している仮想通貨と言える。
そして、仮想通貨によって成り立っている経済となってしまった南部藩は、明治になって、明治政府に救われることになった。
 

仮想通貨の定義・特徴

暗号資産は、国家やその中央銀行によって発行された、法定通貨ではない。
不特定の者に対して、代金の支払い等に使用でき、かつ、法定通貨と相互に交換出来る。
また、裏付け資産を持っていないことなどから、利用者の需給関係などの さまざまな要因によって、暗号資産の価格が大きく変動する傾向がある。
 


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