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3月19日(1997年) ナビスコカップでのシーズン開幕は連続ドロー
支持者の少ない1990年代ですが(笑)、初心を貫きます。
J開幕前に予選リーグ終了
1997年3月19日(水)。浦和レッズは長居スタジアムでセレッソ大阪と、ヤマザキナビスコカップ予選リーグ第3節を行った。
どうということのない試合なのに何故、他の年を抑えて1997年のこの日を選んだのか。それは、この試合で3試合連続の引き分けとなったからだ。
この年の試合日程は、3月7日にヤマザキナビスコカップ予選リーグでシーズンが開幕。そのまま予選リーグ6試合を続けて行い、Jリーグ開幕は4月12日と遅く、Jリーグが開幕したときには、ナビスコカップはすでにベスト8が決定している、という変則的なスケジュールだった。翌年のFIFAワールドカップフランス大会のアジア予選の影響だ。
4チーム×5グループのリーグ
予選リーグは4チーム×5グループで行われた。Jリーグは17チームだが、Jリーグ準会員(JFL所属でJリーグ入りする意志を表明し、かつ設備その他の条件が整っているクラブ)の3チームを加えて20にしていた。準会員クラブはコンサドーレ札幌、ブランメル仙台(ベガルタ)、サガン鳥栖だ。
このうちサガン鳥栖は大会直前に準会員の鳥栖フューチャーズが経営危機により解散し、新たに生まれたクラブ。準会員の資格は喪失していたが、特別参加を許された。
特別参加の鳥栖相手に無得点
シーズン開幕となった3月8日(土)の第1節は、アウェイでその鳥栖との対戦でスコアレスドロー。この年から指揮を執るホルスト・ケッペル監督やオーストリア人MFミヒャエルバウアーの初陣でもあった。この3月8日のことも書きたかったが、長くなるので詳細はこちらで(YouTubeなので見るのも長いが)。続くホーム開幕となった鹿島アントラーズ戦は、高卒新人の田畑昭宏がシーズン初ゴールの快挙で1-1のドローだった。
予選リーグでベスト8を決めるのだから、グループ2位でも突破できるとは限らない。各グループの1位と、2位チームのうち成績上位の3チームが決勝トーナメントに進めるレギュレーションだった。
だからドローが多いとグループ2位にはなっても、他のグループ2位チームより勝ち点が少ない結果で終わるかもしれない。この第3節は何としても勝っておきたかった。
3連続ドローでグループ3位に
しかしC大阪戦も1-1。前年ケガで長期欠場したエースの福田正博がシーズン初ゴールを挙げて盛り上がったが後半2分、相手の韓国代表FWコ・ジョンウンに同点ゴールを決められた。逆転は許さなかったが、シーズン初勝利はお預けとなった。
予選リーグの相手3チームとすべてドローという珍しい結果。だが喜ぶべきことではない。
同じグループのC大阪は2勝1分け、鹿島は1勝1分け1敗、レッズは3分けだからグループ3位。予選突破の信号は赤が灯っていた。
最後はホーム連勝で予選突破
ここからは後日談的になる。
続く第4節はアウェイで鹿島と対戦するが、なんとここでもスコアレスドロー。順位は3位のままで予選突破を考えれば負けにも等しかった。残り2試合に勝っても1位は難しい。2位にはなれるが他グループの結果次第だ。こういう計算は面倒で誰かに任せたくなるが、MDPに載せる以上、自分でやってから、他のメディアの数字と照らし合わせていたはずだ。
結果を言うと、ホームの第5節でC大阪に3-1で快勝。相手が開始2分で1人退場となり、しかもそれで得たPKでレッズが先制し、終始優位に試合を進めていた。
第6節はホームで鳥栖と対戦。本来は開幕戦でしっかり勝っておかなければならない相手だ。ここは4-0の大勝だった。
レッズは予選リーグを2勝4分けの勝ち点10で終わり、他会場の結果待ちとなった。
グループCは、最終節で鹿島がC大阪に勝って首位に。C大阪は勝ち点8にとどまり3位に後退した。他のグループの2位では横浜フリューゲルスが勝ち点11だったが、他はみんな勝ち点9以下。レッズはグループ2位チームの2位となり決勝トーナメント進出が決まった。
アウェイ引き分けの重さも
この1997年はJリーグが固定背番号制になったり、鳥栖の問題に象徴されるようにJクラブの経営が苦しくなってきたりというシーズンだった。また日本サッカーではワールドカップフランス大会への初出場を目指すアジア予選が行われた重要な年だった。
その中で浦和レッズはナビスコカップで劇的な逆転予選突破を決めて、Jリーグ開幕に弾みをつけた。終盤2試合がホームゲームだったことも最後の踏ん張りに大きな力を発揮したし、アウェイ3試合をすべて引き分けというのも相手に勝ち点3を与えないという意味で力になった。
とりわけ3月19日の第3節、長居でのC大阪戦で踏ん張ったことが最後に大きな意味を持ったと言える。
さて、みなさんは1997年3月19日、何をして何を感じていましたか?
※【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。