1月25日(2007年) 10年ぶりの3年目が始まった
2007年1月25日、浦和レッズはこのシーズンから就任する、ホルガー・オジェック監督の記者会見を行った。
レッズは2004年から指揮を執ったギド・ブッフバルト監督の下、3シーズンでステージ優勝1回、天皇杯優勝2回、Jリーグ優勝1回という、それまでにない成績を収めた。
それまでの3倍、6万人収容の埼玉スタジアムでホームゲームを行うことで飛躍的に伸びた入場料収入を財源として日本代表クラスの選手や大物外国籍選手を迎え入れたクラブ。その充実した戦力をうまく使いこなしたギド監督。そしてアジア最大級のサッカー専用スタジアムという絶好の環境で、文字どおりワールドクラスの応援を繰り広げたレッズサポーター。それらが一体となって作り出した黄金期だった。
しかしギドは家庭の事情により、2006年限りでの退任を表明。初のACL出場を控えた新シーズンを前に、クラブが新しい指揮官として白羽の矢を立てたのは、1995年~1996年にレッズ初の外国人監督として招聘され、それまでの最下位チームを上位へ躍進させたドイツ人のホルガー・オジェック氏だった。
オジェック監督が2シーズンで退任となったのは、堅守速攻のサッカーを定着させて勝てるようになったものの、主導権を握った戦い方ではなくいわゆるリアクションサッカーであり、限界がある。優勝するチームへ、さらに戦術的な上積みをするため、というクラブの説明だった。
それをクラブが契約満了の理由とした際に、オジェック氏は「それを3年目からやる予定だった」と反論したというが、クラブの決定は覆らなかった。一説によると、当時の中心選手だったブッフバルトとオジェック氏の間に確執があり、クラブがブッフバルトを選んだとも言われているが、その噂に対してサポーターが不満を唱えることはなかった。
くしくも、そのブッフバルト監督の後任として、レッズ通算3年目となる指揮を執ることになったわけだ。僕はサッカーの世界の綾(あや)に舌を巻いたものだった。
僕自身、オジェックの次の段階がどんなサッカーになるのか見たい気持ちが強かったから「10年ぶりの3年目」を歓迎した。もっとも10年前の選手は山田暢久と岡野雅行しか残っていなかったのだが。
Jリーグと天皇杯の二冠を達成した直後なのだ。この戦力があれば勝てるさ、と思っていたことも事実だ。
【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。