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2月9日(2007年) 二度目のオジェック監督のことを「risoNAVI」に書いた

 今日も自分のメモから引っ張ってきた話。
 2007年の2月9日(金)、僕はクレジットカード会社の広報誌「risoNAVI」3月号に掲載する原稿を入稿した。
「risoNAVI」はりそなカードのユーザーに、使用明細書と一緒に毎月送られる広報誌で、当時りそなカードは浦和レッズのパートナーだったので、毎号レッズのこぼれ話を披露するコーナーがあり、それを僕が担当していた。

 そんな話、別に聞きたくない? もう少し我慢を。

 僕は2005年2月、24年間勤務した埼玉新聞社を退職しフリーになった。MDPの編集を自分の手で続けるためだった。悔いはなかったが生活の不安はあった。
 心身共に大勢の方に支えられた時期だった。中でもレッズのことを扱う仕事を紹介してくれたのが、大日本印刷の鶴川健さんだった。
 埼玉縣信用金庫さんのホームページに掲載していただいている「wepsうち明け話」も、1998年に鶴川さんが持ってきてくれた仕事で、当時は「MDPはみ出し話」として開始し、フリーになってからは現在のタイトルで今でも続けさせていただいている。MDPや埼玉新聞には載せられない、自分の勝手な思いを発表する場をいただいて、本当にありがたかった。もちろん収入の面でも。

 その鶴川さんが「清尾さん、フリーになったんだから、いっぱい仕事やれるでしょう。これ、やってくれませんか」と持ってきてくれたのが、この「risoNAVI」の仕事だった。僕に仕事を依頼するような格好だったが、実のところは鶴川さんがりそなカードに企画を出してコーナーを作ってくれたに決まっている。つまり僕のために、仕事を創出してくれたに違いないのだ。

 初原稿は2005年6月号のもので、締め切りは4月10日。岡野雅行が、当時は珍しいピンクのスパイクを履いている話を書いた。岡野本人のリクエストではないが、メーカーが「岡野さんしか履けません」と言って持ってきたものだが、岡野はこれを履いてJリーグ第2節の川崎フロンターレ戦で今季初ゴールを挙げた。そんな話だった。

 締め切りが発行の2か月前で、対象は一般の成人がほとんど。レッズファンではない人が読んで、少しは楽しく、かつレッズに興味を持ってもらえるようなエピソードを探すのは苦労したが、これも良い修業になった。
 MDPに書く、さいしんのコラムに書く、たまにサッカーマガジンなどのサッカー誌に書く。サッカーファン以外が読む媒体に書くことは、その3つとはまったく違うスタンスが必要だった。

 この2007年2月9日に入稿したのは、この年レッズで2度目の監督に就任したホルガー・オジェックの話。かつて1995年に初めてレッズの指揮を執ったときは、選手が出席するパーティーの食事メニューまで事前にチェックするほどだった。当時を知る選手やチームスタッフからそんな話を聞いて、みんな戦々恐々としていたが、その「前宣伝」が効いたのか「覚悟していたほどでは…」という声がチラホラ。選手のプロ意識が12年前より高くなっているのか、オジェックが丸くなっているのか、もう少し様子を見ないとわからない。
 てな話だった。

「risoNAVI」の仕事は、その後「risonaWEB」に替わり、今はやっていない。

 2007年2月9日のメモに「りそナビ入稿」とあったことで、鶴川さんを思い出し、このことを書きたくなった。
 2011年の7月に亡くなった鶴川さんにはもう会えない。   
 お世話になるばかりで、お返しはほとんどできていなかったが、レッズを叱咤激励しながら、レッズのために、レッズのことを書き続ける。それが鶴川さんへの最も良い恩返しだと思って、今も仕事をしている。
 今年が十三回忌だ。

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。

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