5月16日(1993年)ここから始まる多くの苦難と少しの栄冠、そして熱い日々
1993年5月16日(日)、浦和レッズは万博記念競技場に乗り込み、ガンバ大阪とJリーグ開幕戦を行った。
1日前の15日(土)、国立競技場でヴェルディ川崎対横浜マリノスの1試合だけが開幕記念試合と位置付けられ、盛大なセレモニーと共に開催されたが、浦和レッズのJリーグスタートは、この5月16日だ。レッズは多くの時間、主導権を握り相手を攻め立てたがゴールを割れず、前半29分にCKのリバウンドを蹴り込まれた1点に泣いた。
スタンドに赤青が混在、チアホーンも
僕はレッズ後援会が企画したバスツアーに同行した。早朝、埼玉県庁前に集合して記念写真を撮ると出発。大阪までバスで行ったことがなかったので、けっこう疲れたはずだが、気が高ぶっていたのか、その日は何ともなかった。
万博記念競技場は早くから人で埋まりだしたが、ゴール裏以外の席は赤と青とどちらでもない色が混在していた。ブロック指定だったのだろうか。 今では考えられないが、チアホーンの音もかなり響いていた。当時はまだサッカーの試合には付き物の音だったのだ。
関係者を惑わせるレッズサポの先取り
レッズのゴール裏から紙吹雪が撒かれたとき、おそらくG大阪関係者は当惑していたはずだ。当時、紙吹雪を禁止する規定はたぶんなかったと思う。というか、サッカーの応援に紙吹雪を撒くという発想が浮かばなかったに違いない。
レッズサポーターは、主催する側が思いも寄らないことを先取りしてJリーグ初年度からやってきたが、この紙吹雪もその一つ。しかし開幕してしばらくすると、駒場と三ツ沢球技場以外ではほとんどの試合で紙吹雪が禁止されていったと思う。三ツ沢も黙認されるのは横浜マリノスのホームゲームだけで、フリューゲルスはNGだったかもしれない。
ハーフタイムにレーザー光線によるショーをやるために、スタジアムの照明を落としたところ、いざ後半の始まる時間になっても点灯せず、後半開始が10数分遅れたのは有名な話だ。当時の電球の特性で、一度消灯すると電球が冷えるまで再点灯できないのだ、と言われた。「親会社は電気屋だろうに」という冗談も飛んだが、どうしようもなかった。
まさかの開幕黒星、その後も…
試合は失点の直前に、攻撃の要であり、キャプテンでもあった柱谷幸一が負傷退場したのも痛かったし、新外国籍FWがまったくと言っていいほど機能しなかったのも誤算だった。
本来、勝負だからやってみないとわからないはずだが、何の根拠もなく必ずレッズが勝つと思っていたから、まさかの開幕黒星だった。
だが、その後「まさか」が3回続くとは思っていなかった。 この日が始まりだった。苦難は多かった。多くはないが栄冠もたしかに獲得した。 そして、毎日が熱くなっていったことは間違いない。
さて、みなさんは1993年5月16日、何をして何を感じていましたか?
※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
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