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2月6日(1993年) 後援会ができた日

 1993年2月6日(土)、浦和市内で「レッドダイヤモンズ後援会」(現・浦和レッズ後援会)の設立総会が行われた。
 
 日本サッカーのプロ化が企図されていた1990年、浦和も遅れてはならじと「浦和・プロサッカーチームを作ろう会」が有志で結成され、誘致活動が進められた。いま思うと、本当に個人の集まりだったが、行動力あふれるグループだった。もちろん「サッカーのまち浦和」の土壌が背景にあったことは間違いないが、その熱意が有力者や諸団体を動かした。

 当初、母体として見込んでいた本田技研サッカー部は、会社の決定により「プロ不参加」となった。
 例として妥当かどうかわからないが、当人同士で結婚の約束をしており、男性の方は親も認めていたのに、女性側が親族会議でNGを出したようなものだ。婚約していたわけではないので、破談ですらなかったが、「作ろう会」のメンバーは1年以上掛かって積み上げてきた階段が足もとから崩れるような衝撃を感じた。
 しかし、数日後には雄々しく顔を上げ、新たなターゲット、三菱サッカー部との交渉の糸口をたぐり寄せ、ついには「三菱浦和フットボールクラブ」誕生へとこぎつけたのだ。

「作ろう会」の目的は達成したが、特に浦和に拠点のない三菱を誘致しておいて「後は勝手に」はないだろうと、「作ろう会」を解散し、浦和レッズの後援会組織を作ろうということになり、誕生したのが「レッドダイヤモンズ後援会」だった。
 多くのJクラブが、クラブ内に後援会を作っていったのに対し、レッドダイヤモンズ後援会は、もちろんクラブと逐一連絡を取りながらも、地元の有志が独自に作った組織だった。それだけに、いろいろなすり合わせで、クラブ側とひと悶着もふた悶着もあったことは、僕も後援会設立準備委員の一人だったからよく知っている。

 そして浦和レッズの誕生から遅れること約1年。Jリーグ開幕を1か月後に控えた、30年前のきょう、設立総会が行われた。会長には相川宗一浦和市長(当時)が就任し、浦和市内の行政、企業、サッカー関係者の重鎮が理事を務めていた。

 その後、一般社団法人となったレッズ後援会は、くしくも2023年2月6日の今日、年1回の定例総会を開催する。後援会設立30周年記念事業の第1弾として、「地域に愛されるクラブの形」というテーマのセミナーも行われる。講師は祖母井秀隆さんだ。
 レッズとは直接関係のない方のお話を第1回に持ってくるところに、浦和レッズの次の10年、20年を考えたとき、これまでにはなかった発想が必要だとするスタンスが感じられる。

 30年間、レッズ後援会はユニークなイベントや応援ツアーを数多くやってきた。未会員でも参加できるものが多く、いわゆる「レッズライフ」を楽しく彩るものだったが、それが可能だったのも、後援会がクラブ内部の組織ではないことがプラスに働いていたのだと思う。

 31年目を踏み出すレッズ後援会のこれからが楽しみだ。

※トップの写真は、1993年5月16日、後援会のアウェイ応援ツアーでJリーグ開幕戦の万博に向かう直前のもの。応援幕の左部分には「われらがレッズ、世界を」と書かれている(はず)。

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。

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