11月7日(2007年) イランの空に浮かんだ「浦和」の文字
20年前の僕なら、中東に行くことなど想像だにしていなかった。30年前はパスポートすら持っていなかった。
すべて浦和レッズに連れて行ってもらったのだ。
2007年11月7日(水)、浦和レッズはイランのイスファハンにあるフーラド・シャハールスタジアムで、フーラド・モバラケ・セパハンとAFCチャンピオンズリーグ決勝第1戦を行い、1-1で引き分けた。
ついに来た、という表現がぴったりだった。今では「事実上の決勝戦だった」と選手を含めた誰もが言う、韓国・城南一和との準決勝を制した2週間後。ついにアジアの頂点を決める戦いの舞台に上がった、ということだが、もう一つ。普通の日本人が行くことは稀な中東、しかもイランに来たという「ついに」も強く感じていた。
世界史で習い、小椋佳の「オナカの大きな王子さま」の歌詞に出てくるペルシア。僕の父親が船員で、石油タンカーに乗っていた時期には土産話を聞くこともあったイラン。そしてアメリカが「テロ国家」に指定した国。
正直に言うと、ワールドカップアメリカ大会のアジア予選のころ、イランは中東のイスラム圏の中でもアラブ諸国とは違うのだと初めて知ったくらいだった。昔のアメリカ映画に日本人役として登場する俳優が中国人だったのと同じレベルの認識だったか。
それほど、地理的にも精神的にも「遠い国」に来た、という実感が強くあった。
レッズは試合日の前々日まで時差と暑さに慣れるためUAEのドバイでトレーニングを行っていた。どうせだったらイランでやった方がいいのだが、いろんな自由度がまるで違うのだろう。
僕らメディア陣も練習取材のためUAEに行っていた。練習会場に、ロック・ミュージシャンか映画俳優のような風貌の男が姿を現わし、UAE代表監督のブルーノ・メツ(故人)だと知った。
そして試合前日、試合会場のあるイスファハンに移動した。イスファハンの空港は国際空港ではないため、一度テヘランで入国してからまた空路で向かった。
イランの通貨、リヤルは日本で両替ができなかったのか時間がなかったのか記憶にないが、とりあえずドルを持っていけば通用すると聞いたので持っていった200ドルをホテルで両替してもらったら、古い紙幣で100枚近くになってびっくりした。政治的にアメリカと激しく対立しているのにドルが両替でき、しかも街中の土産物店などで普通に使えるのにも驚いた。政治と民生は別なんだと思った。
そんなことより試合だ。
びっくりするような小さいスタジアムだった。片方のゴール裏がなかった。たしか崖になっていたと思う。反対側のゴール裏の後ろが丘になっていて、そこから試合が見られるな、と思った。
レッズサポーターは全部で500人くらいだっただろうか。いろんなハードルの高さを考えたらとんでもない人数だと思った。チームの帰国用チャーター機を理由したツアーがあったとはいえ、それで250人だから、自力でイスファハンまで行った人の何と多いことか。ちなみに、ツアー用に応援パンフレットを作成したが、MDPかよ、という体裁だったのは仕方ないだろう。
レッズサポーターはメーン側の一角に収容された。特に扱いが悪いという感じはしなかったが、どうだったのだろう。
思ったより暑くはなかったが、喉がすぐに渇いた。砂漠という漢字の「漠」は「水がない」という意味だぞ、と国語か地理の先生が言っていたのを思い出した。試合中の選手はどうなんだろうと心配になった。
試合中、ずっとコーランが流れるのだろうと覚悟していたが、気がつくと場内アナウンスがずっとしゃべっていたのだった。実況というより応援だったのだろうか。松木安太郎さんの解説みたいなものだったかもしれない。
試合はレッズが先制した。44分にロブソン・ポンテが決めた。
しかし後半開始数十秒で追いつかれる。しかも、一度ポストに弾かれたボールを相手に詰められるという、立ち上がりなのに気を抜いていたのか、と言いたくなる残念な失点だった。
勢いが増したセパハンの攻撃を何とかしのぎ、1-1で終了。このアウェイの地で、1-1なら十分だ。次はホームで勝つ。
異国の空にはためいていた、ひときわ大きい「浦和」の旗が、そう言っていた。
15年経ったぐらいでは全く薄まらない、セパハン戦の記憶だ。
さて、みなさんは2007年11月7日、何をして何を感じていましたか?
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