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2024年高円宮杯優勝~金生谷監督が残したもの
苦しかった2024年のジュニアユース
2004年の浦和レッズジュニアユースは関東2部リーグが主戦場だった。
前年、初めて1部から降格。初めてチームを率いた金生谷仁監督は「1年での1部復帰と、日本一になること」を目標に掲げていた。
所属するのは2部リーグでも、全国大会ではレッズジュニアユースの底力を示すことができる、という考えだった。
しかし夏の日本クラブユース選手権(U-15)は、関東予選で負けた。関東2部から全国優勝を目指すはずだったが、それは未達成に終わった。その代わりとして、クラブユース選手権の地区予選上位で敗退した東日本のチームが参加するJCYインターシティトリムカップEASTに出場し、優勝した。日本一ではなかったが、JFAアカデミー福島や鹿島アントラーズつくば、といった強豪チームを完封して優勝を果たした。
金生谷監督は当時「夏のテーマとして『成長しよう、進化しよう』ということと『仲間との絆を深めていこう』ということがあったので、全国大会ではないからモチベーションが低いという感覚はなかった。日本一を目指すなら、ここで負けていてはいけない、という意識も選手たちにあったと思う」と語っている。
また4日間連続で計7試合、2日目は3試合という、過去に例のない過密日程で、選手全員を起用したが、期間中に選手の絆が深まったという。
関東2部リーグから1部に昇格するのは3チーム。まずAB各グループの首位2チーム。そしてグループの2位同士のプレーオフに勝ったチームだ。1部リーグが10チームなのに対して、2部リーグは10チーム✕2グループ=20チームだから、昇格の門は狭い。レッズジュニアユースはずっとAグループ2位で推移していたが、リーグ終盤に来て3位に後退。1年で復帰という目標に黄信号が点灯したが、昇格争いのライバルとのラスト2試合に連勝。Aグループ首位で見事目標を達成した。
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その後、高円宮杯関東予選を勝ち抜いた。関東代表決定戦の相手は、今季インターシティトリムカップでも関東2部リーグでもしのぎを削った鹿島アントラーズつくばで、延長の末に代表権を得た。
苦しさと悔しさでつかんだ高円宮杯決勝
高円宮杯決勝を語る前に、1年間のことを長々と書いたのは、関東予選で負けて夏のクラブユース選手権に出られなかったことや、関東リーグでの昇格争いが今回の優勝につながったとしか思えないからだ。
金生谷監督は「関東予選での負けをプラスに変えたことは間違いないです。あそこからインターシティカップで優勝したり、関東リーグで1部に昇格したり、高円宮杯の関東大会で勝ち進んで全国まで来て、本当にあの敗戦があの子たちを変えたなと思っています」と語り、キャプテンの岩﨑篤斗は「クラブユース選手権のときは自分たちの質の低さというか、相手に本質で勝てないという心の弱さを実感しました。そこから夏に、死にものぐるいで練習して、全員が成長できたと思います」と振り返る。
この高円宮杯JFA第36回全日本U-15サッカー選手権では、まず関東代表決定戦が前述したように延長勝ち、さらに1回戦から準決勝までの4試合はすべて僅差でPK勝ちが2回、終了間際の決勝点が1回という結果だった。
最初の全国大会に出られなかった7月の敗戦が、その後は「どんな劣勢になっても負けない」という粘り強さを身に着ける契機となった。
決勝でも「負けない浦和」の真骨頂が発露した。
開始6分、ガンバ大阪ジュニアユースに先制された。岩﨑キャプテンは、相手の長いシュートレンジに意表を突かれたと語ったが、エリアの外からではあっても、DFがついている中で打たれたシュート。もう少し寄せられなかったか、と悔しさが残った。そういう意味では30分の2失点目もレッズらしくないものだった。ショートカウンターで左サイドから攻められ、そこに守りが集中している中、逆サイドにパスを送られ、やすやすと蹴り込まれた。
0-2という点差よりも、その取られ方を見れば多くの人がレッズの優勝は難しいと思ったかもしれない。しかし32分、レッズは左サイドへボールを運び、和田武士がクロスを上げると、ニアサイドにポジションを取っていた井原桜太が左足でボレーシュート。鮮やかなゴールシーンが会場の空気を一変させた。誰よりも気持ちが切り替わったのは選手たちだったかもしれない。ハーフタイムでベンチに引き上げてくる選手たちに金生谷監督は「楽しんでるか」と声を掛け、選手たちも「楽しい」と答えたそうだが、あのゴールで持ち味であるボールへの執着心や球際の強さ、何よりも戦う気持ちを再燃させた。自分たちを取り戻したからこその「楽しさ」だったのではないか。
後半は互角以上に戦い、ビッグチャンスも作ったが決めきれず、1-2のまま3分のアディショナルタイムも2分をだいぶ回ったころ、敵陣右サイドからのロングスローをつなぎ逆サイドへ。後半から出場の萩原悠雅が左足で放ったシュートはGK正面だったが、GKが直接キャッチせず確実に止めようといったん前に落としたところを、詰めていた松坂碧生がすかさず蹴り込んだ。
僕の記憶では、選手が自陣に戻る前にレフェリーは後半終了の笛を吹いたと思う。つまり、萩原のシュートがGKにキャッチされていれば、次のプレーで笛が鳴っていただろう。「三苫の1ミリ」ならぬ「松坂の1秒」だった。
取り戻した自分たちの持ち味
キャプテンの岩﨑は「"球際、切り替え、運動量"というのが大事で、そこで負けたら絶対に勝てないとずっと言われてきているので、練習から"球際、切り替え、運動量"というのを全員が意識してやっているからこそ、こういう試合のときにも、球際で勝って1つの点につながったと思います」と語る。序盤は"らしくない"失点をしてしまったが、1点を返してから自分たちのストロングポイントを存分に発揮できた。
延長に入ってからはレッズが優勢に見えた。ピンチもあったので、実際は互角だったかもしれないが、僕にはそう見えた。
そして、そのピンチになりかけた場面が勝負の分かれ目だった。
延長後半、レッズの攻撃をカットしたG大阪がカウンターを仕掛ける。ドリブルで運ぶ選手の周りには全力疾走の選手が何人もいた。突破されれれば、良い形でシュートまで持って行かれたに違いない。そのドリブルを、延長に入ってから投入された中田結万がスライディングでカット。そのボールを萩原が拾って右サイドへ送り、井原がシュート。そのこぼれを、これも途中出場の三角隼人が相手に競り勝ってシュート。この試合初めて勝ち越した。時計を見ると延長後半6分だった。
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延長後半6分?
思わずノートをめくった。数ページ前に、高円宮妃杯決勝のメモがある。そこにもあった「'6」の下手な文字。3時間前と同じ時間帯に勝ち越し点が入った。
それまでの流れもそうだったが、そのとき「レディースジュニアユース準優勝のリベンジ」を確信した。
もちろん、金生谷監督や選手たちにそんな意識はなかっただろう。自分たちのことで精いっぱいだったはずだ。
「リベンジ」は応援する者の勝手な感覚。女子U15が果たせなかった優勝を、男子U15がその日に同じ会場で達成する。それでレディースジュニアユースの心がどれだけ晴れるかはわからない。おそらく悔しさがやわらぐことはほとんどないだろう。だが、浦和レッズファミリーを意識する者にしてみれば、高円宮杯優勝の歓びにプラスされた満足感を得られたはずだ。
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さらに言えば。もっと言えば。勝手に言えば。
2024年夏の日本クラブユース選手権(U-18)の優勝チームはG大阪ユースで、平川忠亮監督率いる浦和レッズユースはその大会の準々決勝でG大阪ユースに負けた。金生谷監督は高円宮杯決勝の相手がG大阪ジュニアユースに決ったとき、尊敬する平川監督のリベンジを意識したのではないか。
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僕の知る金生谷仁監督は、いや金生谷仁という男はそんな人だ。
浦和人、金生谷 仁
金生谷さんは2007年1月、6年間在籍した浦和レッズのアカデミーを卒業。アカデミーで華々しい成績は残していないが、ユースの3年生のときはキャプテンを務めており、見ていて「浦和のキャプテン」という感じがした。当時、クラブが発行していたアカデミーの情報誌にこんな卒業記念対談を載せたことがある。
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卒業後はザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)や福島ユナイテッドに在籍したが選手として目立った活躍はなく、2010年を最後に現役を引退。すると当時のアカデミー担当スタッフがすぐに「うちに来ないか」と声を掛けた。金生谷さんがかつて持っていた「浦和イズム」を指導者として育成の選手たちに伝えてもらうためだ。2011年からジュニアユースのコーチを皮切りにレッズアカデミーの指導者として活動し、2019年にジュニア監督に就任したときにはチームを初めて全日本U-12選手権=かつての「全少」出場に導いていた。そして昨季は平川さんと共にユースのコーチを務め、今季ジュニアユースの監督に就いた。
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金生谷監督について岩﨑キャプテンは「本当に愛される監督だなと思います。特に情熱がすごくて、本当に浦和のために、ここまで熱く闘ってくれる監督で、いろんな人から愛されていると思います」と語る。
その監督評からも、かつてユースのキャプテンだったころの雰囲気からも「熱血」というイメージが強い金生谷監督だが、試合中は笑顔を絶やさず、選手たちにかける言葉も「いいね、いいね!」とポジティブなものが目立つ。 僕の想像だが、それは現在トップのコーチを務めている池田伸康さんの影響ではないかと思っている。金生谷監督が指導者としての第一歩を踏み出したとき、レッズジュニアユースの監督が池田さんだった。「浦和レッズ愛」では人後に落ちない池田さんと共通する部分が多いが、違っていたのはポジティブさの発露だった。自分が一生懸命やるだけでなく、子どもたちを一生懸命にさせるのは何が必要か。それをコーチとして側で見ていた池田ジュニアユース監督から学んだのではないか。
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金生谷さんは高円宮杯優勝を置き土産にレッズアカデミーの指導者を退任し、2025年からJ3・FC琉球OKINAWAのコーチに就任する。選手として、指導者として23年間所属したレッズを離れ、琉球の監督に就任する平川忠亮さんを支える決意をした。プロのトップチームを指導するのは初めてだ。
2人には「いつかトップの指導者として浦和レッズに戻る」というおもいがあるだろうし僕もそれを望んでいるが、まずはそれを忘れて琉球をステップアップさせることに専心して欲しい。
2024シーズン、レッズユースをプレミアリーグに復帰させた平川さん。同じくレッズジュニアユースを関東1部リーグに復帰させた金生谷さん。共に監督就任1年目でそれを成し遂げた2人が、他のスタッフと力を合わせて琉球をJ2に復帰させたとしたら、こんなにうれしいことはない。
受け継がれる"血"
岩﨑キャプテンはこう言う。
「(金生谷)監督の血というのが僕の中に入っています。僕がその監督のおもいを背負って、これからはユースでその血と自分の血を合わせて強い浦和レッズにしていきます」
「ユースから新しく入って来る選手たちにも浦和の血というのをしっかり知ってもらって、絶対にユースでも日本一を獲りたいと思います」
金生谷さんが残したものは、優勝カップだけではない。
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