1月18日(2011年) 戻ってきた「クレイジー・ハート」
2011年1月18日(火)、浦和レッズはゼリコ・ペトロヴィッチ監督の就任記者会見を行った。元選手が監督としてクラブに戻ってくるのは、ギド・ブッフバルト氏に続いて2人目だった。
2009年からの2シーズン、レッズはフォルカー・フィンケ監督によって、パスをつないでボールを保持し試合の主導権を握るサッカーを定着させた。一時は連勝で首位にも立ったが、暑い時期に運動量が続かず、相手に引いて守られたときの攻め手が少ないなど、勝てない時期もあるなど成績の変動が激しかった。
クラブは、フィンケサッカーの長所は維持し、さらに勝てるサッカーを目指していくということで、2010シーズン限りで監督交代を決定。レッズOBでもある「ペトロ」に後任を託した。交代の背景には、フィンケ監督のクラブやファン・サポーター、ひいては日本サッカーに対する「薫陶」的な発言も影響していたのではないかと思われる。さらに「外圧」も少なくなかった。
ペトロは1997シーズンの終盤、現役ユーゴスラビア代表時代にレッズに加入したMF。1998年のFIFAワールドカップフランス大会にも出場した。1999年までの2シーズン、主にボランチとして、闘う姿勢を前面に出してプレーした。ファイティングスピリットの強さから警告や退場も少なくなかったが、ファン・サポーターの人気は高かった。
しかし内転筋の痛みなど、ケガが多くなり、思うようなプレーができなくなったことで2000年の9月にレッズを離れることを決めた。その際、オランダの古巣クラブから要請があり、そこで再びプレーすることになったが、レッズ退団を決めたのが先であり、移籍が決まったための退団ではなかった。
レッズ最後の試合となった、大宮アルディージャ戦の後は、別れを惜しむサポーターからの「We are proud of crazy heart Oh!,Petro」というチャントが続いていた。
監督としての経験と実績は多くなかったペトロが後任に決まった背景には、フィンケ監督時代の経験から、サポーターと監督との関係、監督のレッズに対する愛情などを重視するクラブの意図もあっただろう。
そこに関しては成功だったと言える。
ただサッカーの継続という点では、クラブが監督交代の際に表明したとおりには進まなかった。当時のプライオリティーとして「継続性」は高くなかったということだろう。
ところで、17日にミシャ、18日にペトロ。就任順は逆なのだが、仕方ないね。
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