3月12日(2005年) 点の取り合いでドロー がっぷり四つの闘いが始まった
2005年3月12日(土)。浦和レッズは等々力競技場で川崎フロンターレとJリーグ第2節を戦った。これが川崎とのJ1初対決だった。
2000年に2つのカップ戦で対決
川崎との対戦は2000年に3試合あった。
当時ヤマザキナビスコカップはJ2クラブも参加して1回戦から準決勝までホーム&アウェイ2回戦制のトーナメント戦(ノックアウト方式)だった。
閑話休題
話が飛ぶが、これが本当の「“リーグ”カップ」ではないかと思う。現在のルヴァンカップは「“J1リーグカップ”にJ2クラブが1ないし2、数合わせで参加する大会」としか思えない。J1からJ3までガラガラポンの組み合わせでホーム&アウェイのトーナメント戦をやる、というのが本来の「リーグカップ」だし、J3チームとJ1チームがホーム&アウェイで対戦することは双方に刺激を与えることになるだろう。総勢57チームのトーナメント戦は6回戦制となる。ホーム&アウェイなら決勝のみワンマッチとして最多で11試合。日程面で困難なのだろうが、日本をJリーグで盛り上げる方法として、ワールドカップのない年などにやってみる価値はあるのではないか。
ナビスコは川崎、天皇杯はレッズ
話を戻そう。そのナビスコカップ1回戦でレッズと川崎は4月に対戦した。結果は1勝1敗だったが、得失点差で川崎が2回戦に進んだ。第1戦アウェイで0-3と大敗したのが決定的だった。
3試合目はその年の天皇杯。1、2回戦を勝ち進んだレッズは12月10日の3回戦で川崎とぶつかった。会場は等々力だったが、2-0でレッズが勝った。
当時、レッズはこの年1年だけJ2、川崎はこの年レッズとすれ違いでJ1に昇格し1年で降格したので、ずっとカテゴリーは一緒にならなかった。
そんな2チームが、2つのカップ戦で顔を合わせたのだから、すごい偶然だった。確率が何パーセントになるのかは、どなたかに計算して欲しい。違うリーグの2チームが1年に3度も対戦するなんて、堀姫と彦星がうらやむだろう。
5年前の因縁は感じたか
その後、川崎は2005年に2度目のJ1昇格を果たした。記念すべきホーム開幕戦の相手がレッズと決まったとき、川崎サポーターは因縁を感じただろうか。5年前の天皇杯で浦和サポーターが出した「J1のない町、川崎」(ヴェルディが東京へ移転し、フロンターレがJ2降格したことを揶揄したもの)というダンマクを覚えている人は闘志をよけいに燃やしたかもしれない。
レッズは前年2ndステージで優勝したが年間優勝は果たせなかった。ステージ制から通年制のリーグに変わったこの05シーズンで初優勝を狙っていたが、ホームでの開幕戦(鹿島戦)は、見方によっては自滅と言える形で敗れてしまった。
川崎は昇格チームだから与しやすい、とは全く考えなかったが、何としても勝ちたい試合だとは思っていた。
闘莉王が劇的な同点弾
点の取り合いになった。
前半は1対1。PKで先制した川崎にレッズが追い付いた。得点者は酒井友之。相手陣内でDFをかわしながらゴールへ向かい、素早く蹴り込んだ。チームのシーズン初ゴールだった。
後半早々に川崎が勝ち越し。さらにFKを直接決めてレッズを突き放す。1-3のまま試合が進んだが後半35分、途中出場の岡野雅行が横山拓也とワンツーで相手をかわしエリア外からゴール。1点差での残り10分あまりは死闘だった。最低でも追い付きたいレッズと1点を守ることに全てを懸ける川崎。3分のアディショナルタイムが過ぎたラストプレーはレッズ。エメルソンの右ロングクロスから三都主アレサンドロがシュートし、GKが弾いたボールを頭でファーへ送り、最後は田中マルクス闘莉王が頭で合わせながらゴールに身体ごと飛び込んで同点。劇的だった。自陣へ戻りかけた闘莉王だが、時間がないことに気が付いたか、レッズサポーターが陣取るゴール裏へ引き返し看板の上に乗ってアピールした。
互いに全力を尽くしての3-3で、大味とは全く思わなかった。
その後も多い、熱い試合
川崎との対戦はその後も、記憶に残る熱い試合になることが多いが、このJ1初対戦の3月12日もその一つだし、ある意味ではその後のライバル関係を象徴するような内容だったと言える。川崎がレッズをライバルと思っているかどうかは知らないが。
さて、みなさんは2005年3月12日、何をして何を感じていましたか?
※【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。