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7月31日(1993年) 大敗のあとPK勝ち、五分のスタートに希望
Jリーグ元年。浦和レッズは最初の大会である1stステージを3勝15敗の最下位で終わった。しかも第16節には、ホームの駒場競技場で鹿島アントラーズに敗れ、相手にステージ優勝を決められる、という屈辱も味わった。
前年のナビスコカップ予選リーグ5位、天皇杯ベスト4という成績から考えれば、優勝候補とは言えなくても中位で終わってもおかしくないと思っていた。
主力として獲得した2人のアルゼンチン選手が絶不調、相次ぐ選手のケガなどが不振の直接的な要因だと思われるが、当初は専用の練習場がなかったこと、選手寮もなくホテルを借り上げて多くの選手が生活していたことなど、インフラ的な準備がJリーグ開幕に間に合わなかったこともマイナス要因だったと思う。
しかし2ndステージはまた横一線、ゼロからのスタートだから、ここで優勝すればいいと思っていた。
麻雀で言うと、大きなマイナスだった最初の半荘が終わって、次の半荘が始まる。期待感しかなかった2ndステージの開幕だった。そもそもの実力差に気がつくほど僕はサッカー通ではなかった。レッズ通にはなりつつあったが。
出鼻をくじかれた。
7月24日の2ndステージ開幕戦は、アウェイでサンフレッチェ広島に0-4の大敗。1stステージで横浜マリノスで1-5の大差で敗れた経験はあったが、一度も喜ぶ機会がなく、相手のゴールを4回見せられたのはきつかった。能天気な僕もさすがに「2ndもだめか」と落ち込んだ。
しかし、こんな経験はないか。
片想いの相手がいて、脈がないから諦めようと思っていたら、ふと優しい言葉をかけられて、(あれ、もしかして可能性あるのかな)と勘違いしてしまう。
1993年7月31日(土)、浦和レッズは駒場競技場に横浜マリノスを迎えて、Jリーグ2ndステージ第2節を行い、0-0の末、PK戦で勝利した。
この日は選手の動きが良かった。いつもは出足が一歩遅れてチャンスをつぶしたり、ピンチを広げたりしていたのが、それがなかった。見ていて明らかに面白かった。特にボランチの広瀬治が良かった、という記憶がある。
ゴールはなかったがシュート数でも相手を上回っていた。PK戦は、先蹴りの横浜Mが先頭と4人目のキッカーが失敗。レッズは全員が決めて5人目が蹴る前に4-2で決着がついた。
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ステージ初白星は1stステージ同様PK勝ちだったが、1stステージは第5節でようやく初勝利。今回は第2節での勝利だから、1勝1敗の五分の成績になったわけだ。
そりゃ希望持っちゃうでしょう。
さて、みなさんは1993年7月31日、何をして何を感じていましたか?
【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。