11月25日(1995年) 願いは「あと1点」それだけだった
1995年11月25日(土)、浦和レッズは駒場スタジアムに横浜フリューゲルスを迎えて、Jリーグ2ndステージ第26節を行い、勝利した。あれ、スコアは何だったかな。うーん、間違いなく覚えているのはレッズが勝ったこと。そして福田正博がシーズン32点目を取って、Jリーグ単独得点王になったことだ。
このシーズンの終盤数試合、僕は「チームの勝ち負けより、福田が点を入れることの方が大事」と思っていた。
1stステージで初めて3位に躍進したことで、2ndステージは優勝の意気込みでスタートした。駒場スタジアムがリニューアルオープンして、観客も前年までの2倍になった。だが、9月に起こった選手によるサポーターへの暴行事件もあって、成績が低迷しだし、優勝の可能性はなくなった。
それと相前後して浮上してきたのが福田の得点王争いだ。
このシーズンの福田は好調で、2ndステージ第7節には一度得点ランク1位タイになっていた。その後はもう1人の首位だったジュビロ磐田の元イタリア代表、サルヴァトーレ・スキラッチに差をつけられ、20節現在でスキラッチが31点。追う福田が27点という関係だった。
ところがスキラッチはケガのため21節以降欠場が続き、ついには帰国してしまった。
得点王レースは第26節までに誰が一番多くのゴールを挙げるか、ではなく第26節までに誰かが31得点以上のゴールを挙げるか、ということが焦点になり、そのトップを走るのが福田だったのだ。
レッズ誕生の1992年からエースとして活躍してきた福田正博。孤軍奮闘という言葉が似合う時期もあった。
その福田を得点王にしたい。まだ何のタイトルも獲ったことがない浦和レッズにとって、これがJリーグ残り試合の楽しみであり、唯一の目標と言って良かった。
福田は第22節のジェフユナイテッド市原戦で1点、第23節の名古屋グランパスエイト戦で2点を挙げ、第25節のヴェルディ川崎戦でついに31得点に達した。先ほど「チームの勝ち負けより、福田が点を入れることの方が大事」と書いたが、この福田が点を入れた3試合はすべて勝っている。逆に第24節の鹿島アントラーズ戦は、途中PKのチャンスに福田が外し、試合もレッズが負けている。しっかり福田のゴールとチームの勝利がリンクしていたのだ。
得点王タイにはなった。だが、ここまで来たら「単独」が欲しい。
最終節は、これまで以上に「何点失点してもいいから福田の1点が欲しい」という気持ちだったが、そんな「悪魔の取引」をする必要はなかった。0-0で迎えた75分、岡野雅行の突破が相手のファウルを誘い、PKに。これを福田がゴール左に沈めた。
駒場のゴール裏はまるでカーテンがかかったように、大量の紙吹雪が舞った。
1993年・ラモン・ディアス(横浜マリノス)、1994年・フランク・オルデネヴィッツ(市原)と、外国籍選手が獲得してきた得点王の座に日本人が就いた。それが浦和レッズの福田正博。Jリーグが始まって以来の大きな喜びが浦和のまちに降ってきたようだった。
さて、みなさんは1995年11月25日、何をして何を感じていましたか?
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