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6月17日(1995年) 再開初戦に勝利! 場所は新潟

 今日は個人的な理由が半分あるが、やはりレッズの歴史に刻んでおくべき内容も半分ある。

 1995年6月17日(土)、浦和レッズは新潟市陸上競技場にジュビロ磐田を迎えて、Jリーグ1stステージ第17節を行い、2-1で勝利した。

 上記の文におかしなところがあるだろうか。レッズが磐田に勝った? いや、そりゃおかしくないだろ。
 新潟市陸上競技場にジュビロ磐田を「迎えて」、ということはホームゲームなのか? そう。実は何もおかしなところはないのだ。

ホーム以外でホームゲーム

 この前の年から、Jリーグは各クラブにホームタウン以外の、Jクラブがない地域でホームゲームをやりなさいという指示を出した。命令なのか推奨なのかは記憶にないが、そのためレッズは1994年、博多の森陸上競技場でジェフ市原戦を、神戸ユニバー記念競技場で磐田戦を、富山県総合運動公園陸上競技場で横浜マリノス戦を行った。3試合程度やりなさいということで、それに応じた。だが最後の富山は、大事な最終節だったので「ホームタウンはどこ?」という批判も受けた。駒場が改修中で、大宮サッカー場が高校選手権県予選で使用予定、国立も使えなかったのでやむを得なかったのだが、今と違って告知が十分ではなかったこともある。

レッズが左に書いてるからホームゲーム(MDPから)

新潟へのJの種まきになったか?

 この6月17日の磐田戦は、富山でホームをやった半年後、95年になって初めての埼玉・東京以外でのホームゲームだった。もちろんMDPも発行された。
 入場者は14,122人。キャパが約1万8千人だから8割程度、まずまずの入りだったと言っていい。前年の3個所に比べて、新潟は新幹線でも車でも行きやすい場所ではあった。ちなみにその後、アルビレックス新潟が、現在のデンカビッグスワンスタジアムができるまでこの「市陸」をホームスタジアムにしていた。現在の新潟ファンで、このレッズー磐田戦に来てくれた人がいるのだろうか。
 つまりサッカー文化の普及、Jリーグの種を日本全国に播くための取り組みだったわけで、このホームタウン以外での試合開催の意義はあったと思う。この1995年当時は、クラブ数は14だったが、都道府県で言うと茨城、埼玉、千葉、神奈川、静岡、愛知、大阪、広島、8府県にしかJクラブがなかった。
 2022年の今は、逆にJクラブのないところが7県しかない。7県がどこかはクイズ。みなさん当ててみましょう。
 
 さて、試合は前半、ウーベ・バインと福田正博がゴール。後半、1点を返されたが、その後の反撃は抑えた。
 この年、リーグ戦は5月13日の第16節でいったん中断していた。約1か月後の再開初戦がこの試合で、レッズはシーズン8勝目を挙げ、8勝9敗と勝率5割まで、あと一歩となった。

福田のゴールはPK

清尾の「復帰戦」でもあった

 そんな、レッズにもJリーグの歴史にも大事な試合だった、この新潟での磐田戦だが、清尾個人の思い出とは何か。
 このnoteでも何度か書いているが、1995年の開幕時、僕は歩けない、しゃべれないという深刻な病気になりMDPの開幕号までは何とか仕事ができたが、その後は入院もするなどしてしばらく会社を休んでいた。このMDP55号が復帰戦だったので、僕にとっては思い出の1冊だ。だから新潟、磐田、岡野雅行、55というキーワードには軽く反応することがある。

これ、持っている人いますか?

 さて、みなさんは1995年6月17日、何をして何を感じていましたか?

※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


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