見出し画像

清尾淳のレッズ話#275 足跡はより濃く、深く/個人的にも思い入れが強い2005年

 いつも迷う。「~周年」という言い方をするのは、丸~年を過ぎたときなのか、~年目に当たるときなのか。
 たとえば「Jリーグ開幕30周年記念日」と言えば2023年5月15日だが、「30回目のJリーグ開幕」は2022年2月18日(川崎FvsFC東京)なのだ。

 僕は「何年目」の方がはっきりしていて、しっくりくるのだが、それで言うと今年2024年は2005年から数えて20年目に当たる。
 個人的に2005年には強い思い入れがある。何かというと、僕が24年間勤めた会社(埼玉新聞社)を辞めてフリーになったのが2005年の2月21日だったからだ。

 MDPの編集業務は、1992年以来13年間、浦和レッズから委託されて埼玉新聞社が行ってきたが、2005年からはクラブが直接編集に当たるので、その関係を打ち切る、と言い渡された。
 少なくない衝撃と共にその通告を聞いていたが、同時に「清尾さんが会社を辞めてフリーになるなら、引き続きその業務に当たってもらう」と言われ、そちらの道を選択した。クラブが直接編集に当たると言っても、どこかの編集プロダクション的なところに任せるしかなく、それを僕個人で請け負うということだ。
 写真はすでに自分で撮るようにしていたし、13年間でライターさんの知り合いも増えていたから、埼玉新聞社を離れてもやれる目途はあった。

 そんなわけで、今年は僕がフリーになって20年目だ。
 もっと言えば、MDPが発行され始めて33年目。いま僕は66歳だから、人生の半分をMDPと関わってきたことになる。プロサッカークラブの誘致活動からカウントすれば、1990年からだから35年目になる。

 だからというのも変だが、レッズに今年ぜひともJリーグ優勝を成し遂げてもらいたいと思っている。

 自分の行動がレッズの成績とどこまでリンクしているかなど、まったくわからないが、フリーになったあのころ、本当によく仕事をした。どこまでやればいいのかわからないし、止める者もいなかったから、無制限だった。
 トップだけでなく、ユース、ジュニアユース、新しくできたレッズレディースも含めレッズのユニフォームを着た選手が戦う試合があれば、行けるときはアウェイも含めて全部行った。ちょうどレディースが誕生した年でもあったし、ジュニアユースが全国2冠した年でもあった。
 もちろん試合日は重なることが多かったので優先順位はあったが、物理的に可能なら掛け持ちは当たり前だった。昼は川越でユースの試合、夜は埼スタでJリーグ、などは普通で、午前中レッズランドでジュニアユース、午後に駒場でユース、夜は埼スタという「フルコース」もあった。同じ行動を取ったサポーターと三度顔を合わせた。Jヴィレッジから埼スタ、というのも珍しくなかったし、Jヴィレッジからカシマスタジアムだと近くて助かった。仙台でユースの試合とレディースの皇后杯が行われたこともあった。「この方法なら、両方行ける!」というルートを発見するのが楽しかった。

  取材=インプットが増えたのに応じて、アウトプットも増える。
  写真の処理、原稿の執筆などの時間が一気に増大した。MDPとさいしんコラムだけでなく、レッズのオフィシャルサイト、パートナーの発行物など、「清尾がフリーになったのなら」と、仕事を紹介してくれる方々の協力で、関わる媒体も増えていった。
 本当に24時間365日、レッズと関わっていた。起きたらすぐに仕事ができるよう、ベッドの隣にデスクを置いたのもこの年だった。
「清尾さん、いつ休んでるんすか?」とよく聞かれたが「サポーターはふだん自分の仕事をして、土日は試合に行くでしょ。それとおんなじ」と返すのが常だったし、カッコつけでなくマジにそう思っていた。
 自分が濃く深く関わったから「清尾淳のレッズ話#275」で、あれだけ多くの項目が挙がったのかもしれない。

 20年目のいま。
 マジでJリーグ優勝と黄金期の再来を願うなら、まず自分の行動から、あのころに戻さないと、と考えている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?