6月7日(2007年) 罰ゲームではない、その後のACL制覇に生きたA3
海外勢との公式戦に出たい!
A3という大会が初めて行われたのは、2003年の2月だった。日本で開催され、地上波でのテレビ中継があったので見ていた。
A3チャンピオンズカップは、AFC=アジアサッカー連盟が主催する大会ではなく、Jリーグ、中国サッカー協会、Kリーグの合意の下、日本、中国、韓国のリーグ優勝チーム同士が翌年戦う大会で、開催国は持ち回り。開催国は2チームの出場権があるから、全部で4チームが1試合総当たり戦を行うもの。さらにそこから上につながる大会ではないが、賞金がそこそこ出るし、開幕前に真剣勝負でチーム力を試せるからいいな、と思っていた。
2003年の日本の出場チームは、前年Jリーグ年間王者のジュビロ磐田と、前年Jリーグカップ優勝の鹿島アントラーズ。この2チームが日本の代表として国際大会に出場するのは、当時としてはおかしくなかったが、鹿島の出場資格であるナビスコ杯優勝は、レッズが取り損なったもの。僕だけが知らなかったのかもしれないし、知っていたところで決勝の結果が変わっていたわけではないだろうが、「ああ、あれに勝っていたら、この大会に出ていたのか」とは思った。
当時、ACLのテレビ中継はあったのだろうか。たぶんなかったので、日本国内で優勝してアジアの大会に出場している日本のクラブをテレビで見たのはそれが初めてだった。A3が、たとえそこから世界につながるものではなくても、やはり優勝することで海外のチームと対戦するというのはいいなあ、と思った。そのころからレッズはヨーロッパの有名クラブと国際親善試合を頻繁に行うようになったが、「有名選手を生で見られるのはいいし、選手にも刺激になるだろうが、親善試合は親善試合。A3でもいいから海外のチームと真剣勝負がしたい」とも僕は思っていた。
意義は薄れていたが楽しみも
2007年、浦和レッズはACLを本気で獲りに行くための準備を1年間かけて行い、3月の開幕に臨んだ。僕の願望はその時点ですでに叶っていたし、考えてみたらACLがあるのに日中韓だけで大会をやる意義は薄そうに思えた。また大会期間も開幕前の2月から6月に変更になっていて、できれば選手の回復に当てた方が良いと思われた。
しかし大会は大会。それにアジアの強豪チームと公式戦を行う機会は多くてもいい。
また開催地の山東省済南市は、検索すると「中国の抗日運動発祥の地」と出てきた。4月に行った上海よりはだいぶアウェイ感が強そうに感じた。また韓国のチームとはACLでも未対戦だった。それらの点では楽しみでもあった。
日程は6月7日から13日まで中2日の3試合。5日に現地入りして14日に帰国するスケジュールだった。期間中、移動はなく試合会場も練習場もずっと同じ。今年2022年のACLグループステージを半分にしたようなものだ。
現地入りした夜は前夜祭が行われ、歌手の倉木麻衣が大会テーマソングを歌っているということで、ゲスト出演した。前夜祭があるところは、ややお祭り的な匂いも感じたが、試合の前日ではないので、さほど気にはならなかった。
初の対海外勢公式戦黒星
2007年6月7日(木)、浦和レッズは中国の山東省体育中心体育場で、山東魯能とA3チャンピオンズカップ第1戦を行い、3-4で敗れた。
山東魯能は、今年のACLでも対戦した山東泰山の前身。前年の中国スーパーリーグ優勝チームで、開催地の済南市をホームタウンとするクラブ。試合は、17分に長谷部誠がヘッドで先制したが、前半のうちに追い付かれ、後半3点を奪われる苦しい展開。終了間際にワシントンが2点を挙げて追い上げたが届かなかった。これが海外勢に公式戦で初めて負けた試合となった。
さすがにACLほどの多さではなかったが、この試合にも浦和からサポーターが駆け付けていた。
第2戦の10日は日曜日だったのでスタンドの赤い集団はだいぶ増えていたが、韓国の城南一和戦で、大会唯一の勝ち試合を多くの人に見てもらえたのは良かった。ただ初戦の後は、現地のサポーターとイザコザがあり、レッズサポーターがなかなかスタジアムから帰れないという事態も発生した。 第3戦はACLでも対戦した上海申花に1-3で敗れ、レッズは大会を3位で終えた。
アウェイの厳しい戦い、経験に
A3はこの2007年を最後に、財政的な困難で開催されなくなった。
日本においても、レッズやG大阪が優勝したことでACLの注目度がはね上がり、おそらく相対的にA3の重要度が低くなっただろうから、なくなって残念だという声は聞かれなかったと思う。もともと口の悪い関係者は「罰ゲーム」などとA3を揶揄していたのだ。
レッズも14日に帰国して、17日からリーグ再開の3連戦を控えるなど、シーズン全体の日程から見てもきつい大会だった。だが、ACLのノックアウトステージを前にアジアのアウェイでの戦いの厳しさをあらためて知ることができたのは、その後に生きたと思う。「罰ゲーム」的な要素だけではなかった。
15年前に終わったA3チャンピオンズカップ。その最後の大会に参加できたことは、僕の記憶に刻まれているし、中国で10日間を過ごしたことも貴重な体験だった。浦和レッズの30年史にも、ちゃんと記しておくべきだと思う。
さて、みなさんは2007年6月7日、何をして何を感じていましたか?
※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
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