![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/82746556/rectangle_large_type_2_f2f5f438f60aa15c0f1a95bc270124b8.jpeg?width=1200)
7月16日(2003年) 負けなければいい試合の危険性を相手に教えてもらった
負けなければいい、という条件の試合はよくある。ホーム&アウェイ方式の第2戦とかリーグの最終節とかで、引き分け以上で何かを得る、という試合だ。
もちろん有利な条件なのだが、負けない意識で戦うのと、引き分け狙いとは違う。
2003年のヤマザキナビスコカップと言えば浦和レッズが初タイトルを獲った大会。しかし予選リーグではずっと黄信号が灯っていたというのは、7月2日の「あの日」で書いた。その続きでもある。
2003年7月16日(水)、浦和レッズは駒場スタジアムにヴィッセル神戸を迎えて、ナビスコ杯予選リーグ最終節を行い、1-0で勝利した。
相手の引き分け狙いにも焦らなかった
レッズは1勝2分け2敗でグループ3位。2位の神戸とは勝ち点2差があった。2位との直接対決なので、勝てば逆転で予選リーグを突破できる。対して神戸は引き分ければ2位のまま。勝てば1位に浮上するかもしれないが、それは他会場の結果次第だし、可能性は低かった。
レッズの1勝は、第3節のアウェイ神戸戦。神戸はその試合が頭にあったのか、試合開始から引き分け狙いと思われる戦い方だった。ボランチも含め守備陣がゴール前を固めて、レッズにつけ込むスキを見せない。何より一つひとつのプレーが遅かった。
その狙いはある程度成功し、前半は0-0。こんなとき危険なのは、時間が進むにつれて焦ることだ。精神的にも疲労が増加し、ミスが多くなる。レッズは前年初めてナビスコ杯決勝に進出し、準優勝に終わった。その悔しさを晴らすためには、こんなところで終わっていられない。その気持ちは確かにあったと思う。
しかし、それが焦りにつながっているようには見えなかった。相手のカウンターに気をつけながら、90分以内に1点取ればいい。いや、必ず1点取るという構えでいるように、僕には思えた。
守備から攻撃への急な切り替えは難しい
そして74分、相手のバイタルエリアでパスを回し、鈴木啓太が左足でシュート。ついに神戸ゴールを割った。残り時間はまだ20分近くある。ここで失点してしまっては何もならない。
![](https://assets.st-note.com/img/1657934342698-tWIL7qkr8a.jpg?width=1200)
だが、70分間続けた守備的なサッカーを急に切り替えられるほど神戸は器用ではなかった。逆にレッズはそれまで主導権を握って戦うというスタンスで試合を進め、流れを相手に渡さなかった。ある意味で、神戸は自分で自分の首を絞めた、と言える。 負けなければいいというとき、引き分け狙いで戦うことがどんなに危険か、相手に見本を見せてもらった試合だった。
この7月16日も書いておきたい
ところで、この翌年、2004年7月16日のことも書いておきたい。試合ではなく、大原での練習後に行われた記者会見のことだ。
この日、アテネ五輪日本代表選手の発表が行われ、浦和レッズから田中達也と田中マルクス闘莉王が選ばれたのだ。屋外で行われた会見に臨む2人の表情を見て欲しい。
![](https://assets.st-note.com/img/1657934062459-LAK4p1J8Hz.jpg?width=1200)
五輪代表に選ばれて満面の笑み、にはとても見えない。闘莉王にいたっては、むくれているようですらある。そして2人が着ているユニフォームは、達也が8番、闘莉王が13番。同じレッズから選ばれて五輪予選を戦ってきた山瀬功治と鈴木啓太のユニフォームを着ていたのだ。
この日の代表発表に、その2人の名前がない。それを知った闘莉王は記者会見に向かう前、「8番と13番のユニフォーム、持って来い!」と周りに怒鳴ったそうだ。
闘莉王本人にそのことを聞くと「彼ら2人がどんなに予選でがんばっていたかよく知っている。特に啓太はキャプテンとしてチームを支えていた。彼らと一緒に戦えないことが信じられなかった。自分が選ばれたことはうれしいが、彼らのことに納得できなかった」と話していた。
闘莉王は、この年水戸ホーリーホックから移籍してきたばかり。もう7月ではあったが、シーズン最初から五輪予選代表の活動に参加しており、さらに終盤に肉離れを負ったため、レッズでの初出場は5月に入ってからだった。
短い間に、その闘志あふれるプレースタイルに共感を覚えるレッズサポーターは多かった。それに加えてこの日の会見で、僕は闘莉王という選手の新しい面を見た。仲間のためにここまで言えるやつ、ここまでできるやつ。それが単なるパフォーマンスではないことは、この憮然とした表情が示している。こいつは絶対にチームのために自分を犠牲にしても戦ってくれる。そう思ったし、その予感は当たっていた。
さて、みなさんは2003年7月16日、何をして何を感じていましたか?
【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。