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真魚八重子『心の壊し方日記』試し読み①

2018年のクリスマスの夜、黒猫を飼いはじめた真魚のもとに10歳違いの兄の訃報が届いた。8年ぶりに疎遠だった実家に戻るとそこはゴミ屋敷となっていた──。
気鋭の映画批評家である真魚八重子の初めてのエッセイ『
心の壊し方日記』を左右社より、11月上旬に刊行します。本書は、兄の死とリボ払いの借金、母の認知症、夫の癌発症、自身の鬱とセルフ・ネグレクト、SNSでの大炎上と自殺未遂……など自身の5年間の体験を苛烈に綴ったエッセイです。試し読みとして、2話分を無料公開いたします。

第1話 兄の死

2018年のクリスマスの夜だった。
わたしは猫を飼い始めて、まだ10日ほどしか経っていなかった。保護猫のなかで、もう子猫ではない子や黒猫は貰い手が少ないらしい。特に黒猫はインスタ映えしないから、あまり人気がないそうだ。でも、近くの公民館で開かれていた譲渡会で気になったのは、もう1歳の成猫で黒猫だった。心を閉ざして固まった姿に、わたしが愛情を注いであげたいと思った。譲渡してもらったその子に、名前はオコエとつけた。
わたしはその晩も、まだぎこちなくオコエを愛でていた。すると、大学生の姪から初めて電話がかかってきた。わたしは上京してからの十数年間で、ほとんど帰郷せず、親族とは近況を知らせるような連絡も取り合ったことがない。姪と最後に会ったのも、彼女が中学校のセーラー服姿のときだ。なので、何事だろうといぶかしみながら電話を取ると、姪は「父が亡くなりました」と言った。
わたしと長兄は10歳違いで、彼はまだ56歳だった。かなり太っていたせいか、死因は大動脈りゅう破裂。あっという間に息を引き取るので、苦しくはない死に際だったろうと聞いて、そこだけは安心した。わたしは父親を亡くしたばかりの姪に、なだめすかすようにお悔やみの言葉を言ったが、姪のほうはちょっと照れて困ったような口調で、言葉少なに返事をした。彼女のクールで落ち着いた対応に、感情的に話しかけた自分が気恥ずかしくなった。
それにしても83歳と高齢な母が心配だった。わたしは常々、兄には地元に残って母の面倒をみてくれていることへのありがたさと、長男の役割を押し付けてしまったうしろめたさがあった。その兄がいなくなってしまうのは、母にとってどれほど寂しいだろうか。それに、正直な気持ちを言うと、「じゃあこれからは、兄の代わりにわたしが頻繁に顔を出さなきゃいけないんだな」という億劫さがあった。我ながら薄情だと思うが、兄が亡くなって早々であっても、その懸念はどうしても湧き出してきた。

わたしは普段、映画ライターをしている。ときに文字数の都合で映画評論家と名乗ったりもする。雑誌や新聞、パンフレットなどに映画評を書くのが主な仕事だ。きっかけは趣味でブログに映画評を書いていたら、映画雑誌から原稿依頼が来るようになったためで、現在ではありがたいことに著書もある。東京生まれでやはり映画好きの夫と二人暮らしで、子どもはいない。わたしとしてはもう、実家に骨を埋める気はない。

翌日、わたしは8年ぶりに愛知県の実家に帰った。名古屋のベッドタウンとうたっているが、公道沿いに養老乃瀧や洋服の青山といった大型チェーン店が並ぶだけの、何もない田舎だ。気が滅入るほど人気のない、がらんとした駅を抜けてほどなく実家に辿り着くと、わたしは違和感でぎょっとした。玄関脇の笹の植え込みは枯れ果て、その奥に一体いつから掃除をしていないのか、土ぼこりをかぶった網戸が完全にさび付いていた。あきらかに、わたしが住んでいた頃よりも荒廃している。それも順当な経年劣化ではなく、人間の手が入っていない廃墟の朽ち方に似ていた。
家に入るといっそう驚きが増した。家中がガラクタを積み上げたプチゴミ屋敷になっていた。どこの部屋も無駄に荷物を詰め込んで、足の踏み場がない。ゾッとしたのはカレンダーがそこかしこにかかっているのに、どれも何年も前のもので、母の傍らの月めくりしか日付があっていなかったことだ。9年前に亡くなった父の書斎に至っては、父の亡くなった月のカレンダーがいまだにかけられていた。兄は実家の近くに住んでいて、毎日のように出入りしていたのに、母も兄も父の荷物を一切処分していなかった。母に関してはまだ、父への愛着でそうしていると考えられるものの、兄はいったいこの9年間、何をしていたのだろう。
まだ25歳なのに喪主となった甥のK君は、葬儀会社の人と粛々と手続きを進めていた。彼はギタリストで、ギター講師やガソリンスタンドでアルバイトをして生活している。髪を長く伸ばしていてバンドマン然としているが、いたって常識人だった。彼も姪と同じく、父親の死を冷静に受け止めていた。
わたしたちは兄の死去を、親戚にも知らせないことにした。高齢で精神的にも弱っている母に相手をさせるのは忍びなかった。それにどうせ黙っていても、小さい町ではどこからともなく兄の死は漏れ伝わっていくだろう。若い人の突然死は好奇心を抱かれ、とやかく噂話が流れるに決まっている。特に不況から家業を畳んでいた、バツイチの兄に対してはいろんな憶測が持たれるはずだ。だからわざわざ門戸を開放して、詮索好きな人が立ち入るような隙は与えたくない。
白い着物を着た兄の遺体は仏間に横たえられて、眠っているように穏やかな表情をしていた。
兄は家業である土建屋を継いでいたが、不況でしばらく前にその看板は下ろしていた。父に教わりながら仕事を覚えていくはずが、その父がウイルス性髄膜炎で思いがけず突然昏睡状態となり、結局意識を取り戻すことなく2009年に亡くなった。残された兄は父の助力なしで独り立ちせざるを得なかった。そのあたりから、わたしは実家と疎遠になっていたので詳しい経緯はわからないが、数年前に母から建設の仕事はやめたと電話で聞いた。

兄は人が良いぶん、損をした人生だったと思った。強権主義の父に思い通りに動くよう強いられ、気弱さからずっと父に歯向かえずにいた。それでも責任感は強くて高校時代はブラスバンド部の部長を務めていたし、コンピューターの仕事に就きたいといった夢を抱きつつも、長男だからと大学は父の指示通り建築学科に進んだ。でも兄はギターを愛する青年で、傍目にも土建屋には向いていないのがわかった。本意じゃない進学はやる気をそいだようで、留年を繰り返してしまい、卒業するのも苦労することになった。結局、兄は大学を中退した。
通夜1日目の夜、家には甥と姪のNと、母とわたしの4人だけだった。冬は鍋で済ませられるから便利だ。夕飯の準備をしている間も、気が弱くて優しい兄のエピソードが色々と頭に去来した。長電話を見咎めた父から「男らしくない」と怒鳴りつけられ、叱られていた姿。兄はその間も癖で髪をいじっていたので、「それが女々しいというんだ」とよけい、父の怒りの火に油をそそいでいた。
そういった軋轢が溜まりに溜まって、心を病んでしまったときもあったようだ。大人になってからの兄は、家に寄り付かず友人の家に寝泊まりしていたが、ある日、彼から長文のファックスが届いた。そこには父への恨み言が綿々とつづられており、「金属バットで家族を皆殺しにしようと思ったこともあります」などと書かれていた。わたしはそのファックスを見て、不謹慎にも(面白いことが起こったぞ!)と思って興奮した。ワクワクしながら両親に「お兄ちゃんが襲ってきたらやられる前にやり返さないと! こっちも金属バット用意しようよ!」と言ったら、とてもイヤな顔をされた。
兄は模索する20代を過ごし、自分らしく生きようとして、コンピューターの専門学校に進んだり、結婚をして一般企業に勤めたりもした。しかし結局、しばらくのちに家業を継いだ。父のことだから「家を継いだらマンションは買ってやる」くらいの甘言は言ったんじゃないかと思う。でも、折り合いが良いとは言えない父と一緒に仕事をするのは、かなり覚悟が必要だっただろう。
この頃の出来事で、父と兄の性格の違いが見えて印象的だった場面がある。兄が車の運転中に他の車と接触事故を起こしてしまったのだ。先方が謝っているときに、兄は場を和ませるためか、気遣いだったのか「いや、ぼくもよそ見しちゃってたんで」と一言付け加えた。相手はそこに食いついてきた。そして、その事故は兄の過失として処理されることになった。たぶん修理代などの負担が大きかったのだろう。父は苦々しい顔で、兄のそういった気弱さからくる不用意な発言や見通しの甘さを非難していた。
兄が家業を継ぐことに、兄嫁は反対だったらしい。それも兄はほとんど相談せずに決めてしまったため、より怒り心頭だったようだ。会社は実家の裏にあり、兄たちは名古屋を離れ実家と同じ市内のマンションに住むことになった。兄嫁にしてみれば、実家の近所に住めば同居ではなくても、生活に干渉されるのが目に見えていた。
それに兄嫁と父はびっくりするほど折り合いが悪かった。舅と嫁が言い争いになることはあったとしても、大声をあげて怒鳴りあうのは珍しいと思う。そのうち兄との関係も険悪になっていき、母から電話で聞いたところでは、兄嫁は家の中ですら兄を避けるようになったらしい。台所で兄がいるテーブルを迂回して歩くなど、露骨な嫌悪感を示していたようだ。そんなことがあって、2人は結局離婚した。この頃から兄は急激に太りだしていた。抗うつ剤の副作用で食欲が増すせいだと言っていた。
兄は父の援助も受けつつローンを返したマンションを奥さんに明け渡し、それから最期まで家賃3万円の築40年近いアパートに独りで住んでいた。親権は彼女が得たので、甥と姪は母親とマンションに同居していたが、今でも毎週のようにおばあちゃんに会うため実家へ来ていた。大人になってからも祖母の家に頻繁に顔を出す孫は珍しい。
兄嫁はお金の管理が厳しく、兄の小遣いは月3万円で、残りの何十万かの給料は兄嫁と甥の名前で貯金がされていた。わたしは兄名義の貯金がないという話には心底驚いた。そのせいで兄はいつもキュウキュウで暮らしていた。父は「部下におごる金もないなんて体裁が悪い」と渋い顔をしていた。そういった兄夫婦の台所事情がわかったのは、兄が会社の金を使い込んだためだった。
夜、甥がドイツ在住の次兄とSkypeをつないでくれた。この兄はわたしの8つ上で、約30年間、ドイツでリュートの演奏家として活動している。甥は小さい頃からこの叔父を尊敬していて、ギタリストを目指したのもその影響だった。黒髪を長く伸ばした髪型といい、背が高くて瘦せた体型といい、叔父と甥でよく似ている。
わたしと次兄が顔を合わせるのは久々だった。クリスマスシーズンで飛行機が取れず、葬式には帰れないと残念そうに言った。わたしは声が小さいし、母はパソコンに向かって喋るのに慣れなかったので、話は弾まなかった。甥がノートパソコンを持ち上げて、「父さんの遺体の顔を見ますか?」と問いかけた。わたしは横で少しギョッとした。次兄も「そこまではしなくていいかな」とやんわり断った。
夜更けに、長らく掃除をしておらずほこりっぽい部屋で、いつもの習慣が抜けず寝酒を飲んだ。何年か前、LINEを導入したわたしがよくわからず、連絡先を同期してしまったときのことを思い出した。
長兄から、突然LINEでメッセージが届いたのだ。他人行儀な兄妹では、ひどく珍しいことだった。わたしは兄と電話で話したことすらなかったし、会話をしたのはずいぶん前に、たまたま実家で居合わせたときくらいだ。お互いの生活についての細かいことは、すべて母から伝え聞いていたので、直接やりとりをするのは本当に久々だった。
兄は小さい頃から物書きになりたかったわたしが、実際に文筆を生業にしたことを「良かった」と言ってくれた。もし生活に困っても、なんとか面倒をみようと思うからとも。端的に言って、わたしたちにとってもっとも重要な話題は生活の糧だった。わたしも次兄もまともな社会人ではなく、大きくなるまですねかじりだった。なんて情けない存在だ。でも長兄は音楽家や文筆業には、そういった経済的支えが必要なのだと考えてくれていた。ただ感謝するしかなかった。
わたしはそんなことを多少、感傷的になりながら思い出していた。まさかその後、甥から驚愕の真実を知らされ、わたし自身もその日以来、波瀾の日々を送る羽目になってしまうなんて知りもせずに。

>第2話

真魚八重子『心の壊し方日記
四六判並製200ページ/本体価格1800円+税
ISBN 978-4-86528-339-6 C0095
2022年10月26日取次搬入予定
左右社


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