#09 ニーシュ、歴史の地層を訪ねて【前編】
セルビア、ベオグラード在住の詩人・翻訳家、山崎佳代子さんの連載。歴史や詩、そして山崎さんの出会う人々とともに、ドナウの支流をたどる小さな旅。今回の舞台は2つの世界大戦で傷をおった土地ニーシュです。
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ニーシュはセルビアの南の町、人口は26万人。ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝の生地で、古代はナイススと呼ばれ、2世紀にプトレマイオスが著わした地図『ゲオグラフィア』にも登場する。町を流れるのはニシャバ川。南モラバの最も長い支流で、ブルガリアとセルビアにまたがるスターラ・プラニーナ山(標高2376メートル)のマーリー・コム峰(標高1848メートル)に源流がある。ブルガリア領内の上流はギンスカ川と呼ばれ、対岸がセルビアの領域となり二つの国を流れるあたりからニシャバ川と名を変える。ブルガリア領内は67キロメートル、セルビア領内は151キロメートル、全長は218キロメートルになる。ニーシュ市から約10キロメートルのトルパラ村で南モラバ川に注ぎ、スタラッチ市近郊で西モラバ川と合わさって大モラバ川を形成、スメデレボ市のあたりでドナウ河に注ぎみ、黒海に溶けこむ。
ニーシュは、ヨーロッパとアジアを結ぶ道に位置し、歴史を通じて、この町をめぐる戦いが繰り返され、異なる文明が溶けあっている。1世紀から7世紀まで続くローマ帝国時代、スラブ人の移住、12世紀から始まるセルビアのネマニッチ王朝時代、14世紀から19世紀まで続いたオスマン帝国時代、オーストリア・ハンガリー帝国との相克……。19世紀にセルビア人が蜂起し、オスマン帝国から独立、町は西欧の近代都市へと変容していく。だが二つの世界大戦で、ニーシュは深い傷を負う。ブバニの丘は、ナチス・ドイツの処刑場であった。
ブバニの丘を空から望む (Aleksandar Ćirić アレクサンダル・チーリッチ撮影)
ニシャバ川の流れは、ここでは穏やかだ。日頃の水位は低く、水際に遊歩道が続き、夏はカフェのテラスが賑わう。遠くに山をいただき、京都の鴨川を想い出す。ニーシュに行ったら、居酒屋を訪ねること。情熱的な食物と酒、善き仲間、おしゃべりと唄……。
この町を訪ねると、歴史の闇に一条の光が射してくる。11月が過ぎ去ろうとしていた。ブバニの丘を訪ねたい、また古城を歩きたい。仲良しのスターナに連絡する。彼女は詩人、夫のスロボダンは歯科大学の教授だった人。ぜひ、いらっしゃい、息子の部屋が空いたから泊まれるわ、と明るい声。縞模様のトランクに、お土産のワインと書物を入れる。次の日、旅に出た。
ブバニの丘へ
朝の七時、外は仄暗い。ベオグラードからニーシュへ、長距離バスで約240キロ。3時間ほど走ると、左手になだらかな丘がつらなり、肥沃な平野が拡がる。ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝も、ここを通ったろうか。高速道路から右に折れ、ニーシュの町に入る。古城の傍らのバス・ターミナルで、スターナとスロボダンが迎えてくれる。二人の家に向かう。鄙びた庭が懐かしい。スロボダンの祖父が建てた家だ。スターナの手作り人形が並ぶ居間で、ポテト・パイの朝食。建築家の夫妻、シーマとゴルダナが現れ、車でブバニへ向かった。
5分ほどで、落葉樹の森に着いた。車を降りると、土が香りたった。青空が高い。「雨が続いたのに、カヨが太陽を運んできたわ」とスターナが歌うように微笑む。入口に「ブバニ記念公園」の看板があり、白い石段が厳かに続く。若者が犬と散歩をしている。
シーマ氏は、森を見つめて言った。「第二次大戦中、ここで1万人が虐殺された。1944年8月、ドイツの敗北が確実になると、ナチスは森に大きな穴を開け、虐殺した人々の骨や新しい遺体を放りこんで焼却した。20日間かかったという。戦後すぐ、羊番の子供たちが森で遊んでいたらね、死体がたくさん見つかった。ここには、まだ遺骨が出てくるはずだ……」石段を上りながら、左右に拡がる森を見渡す。樹木は、微かな風に赤や黄色の葉を落とし、地面は枯葉に埋もれていく。
500メートルほどで石段が終わり、広い野原が開けた。3つの巨大な拳骨の記念碑が、青空を仰いで立っている。手前には、大理石の白いレリーフがある。私たち五人は、記念碑の前に立った。左側に銃を構える兵士たち、絞首刑になった人々、殺されて横たわる人々、最後に抵抗を象徴する拳骨が、単純な太い線で彫られている。クロアチア人の彫刻家イバン・サボリッチ(1921-1986)の作品。1959年の公募により選ばれ、1963年10月13日に開幕式があった。
ブバニ記念公園、レリーフ(アレクサンダル・チーリッチ撮影)
拳骨は高さが違う。16メートル、14メートル、13メートルで、鉄筋コンクリートで作られ、男、女、子供の手を表す。民族衣装の柄を想わせる幾何学模様が刻まれていた。レリーフは長さ23メートル、高さ2,5メートル、厚さ40センチメートル、マケドニアのプリレップ産の白い大理石が用いられた。「詩が彫ってある」と、スロボダンがレリーフを指さす。土地の詩人イバン・ブチコビッチの詩で、社会主義の時代の香りがした。
共産主義者と愛国者の血から革命の拳骨が息吹いた
抵抗と警告の拳骨が、自由の拳骨が
僕らは処刑されたが、僕らは決して殺されず、屈しなかった
僕らは闇を踏みしめ、太陽に道を拓いた
森の奥に、戦後、最初に立てられた記念碑がある、とシーマ。道はぬかるんでいる。スロボダン夫妻はベンチで休み、シーマ夫妻と細い道を辿った。やがて、木陰に小さなピラミッドが現れた。解放運動の象徴、星が付けられている。高さ2,25メートル、1950年7月7日の日付が記されていた。灰色のごつごつした石を積み重ねた、素朴なものだ。
ニーシュ解放運動記念碑、ピラミッド (アレクサンダル・チーリッチ撮影)
「セルビア人はね、自由を大切にする。19世紀は、オスマン帝国からの解放で大きな犠牲を払った。20世紀は、バルカン戦争、第一次大戦で青年男子の三人に一人が死んで勝利した。第二次大戦の解放運動も、セルビア人が数多く参加した……」とシーマが言うと、ゴルダナが言った。「第一次大戦では、アルバニア越えという厳冬の行軍があって、祖父も兵士だった。飢餓とチフスで多くの人が亡くなった。祖父は、戦争の話はほとんどしなかった。祖父の名はね、ドラグティン……」
鳥の澄んだ声が聞こえる。ここは珍しい野鳥の棲息地、春の歌声は麗しいだろう。ベンチからスターナとスロボダンが立ち上がる。私たちは、車で古城へ向った。
ブバニ記念碑、イバン・サボリッチ作(アレクサンダル・チーリッチ撮影)
古城の記憶
古城はニシャバ川の右岸にあり、1723年建造の大理石のスタンボル門が、オスマン帝国時代の威厳を示す。門の前に橋が架かり、イスタンブールに至る道へ続く。「4世紀から、橋はいつも、ここに架けられた。1903年までは木橋、現在の橋は鉄製で1964年のもの。橋の工事で、コンスタンティヌス大帝の頭の彫像が発見された。「橋の袂のあたりに、ローマ時代の橋の跡が残っている」とシーマが言う。鉄橋の下を覗くと、どっしりとした煉瓦の橋台の一部が残っている。大きな橋だったらしい。
門の傍らに、青い記念碑がある。1999年の春から初夏にかけて続いたNATO空爆の犠牲者を悼む記念碑だ。岸辺の少し先は、12世紀、十字軍を率いるドイツのフリードリッヒ・バルバロッサ王とセルビア首長ステファン・ネマニャが会見した場所……。わずかな空間に、劇的な事件が記されている。
古城に入る。カフェのテラスで、スターナたちはコーヒーを飲み、シーマと私は遺跡を辿った。スタンボル門のすぐ左手は、オスマン帝国時代のトルコ風呂、その隣は要塞の一部で、カザマットと呼ばれる大砲を出す場所だが、今はコンサートホール。右手はオスマン帝国の軍の武器庫だったが、戦後は立派なギャレリーになった。
少し先の左手は、赤い煉瓦で囲まれた遺跡、かつてはローマ帝国の公衆浴場だった。「ギムナシウムと呼ばれた場所は、体操や話し合いの場所、今風に言えば文化会館だ。脱衣室が二つ、さらにフリギダリウムという冷水の風呂、テピダリウムとよばれる蒸気風呂があって壁が熱せられていた。奥にはプレフルミユンとよばれるボイラー室があった。医学的にもよく考えられていたね……」。廃墟を見つめていると、晩秋の草叢からローマの貴族の裸体がたちあらわれる……。余所から来た者が病気を運ぶと考えられ、旅人は、衣服を脱いで熱気で消毒し、入浴してから町に入る決まりだったそうだ。昔も、感染症は恐怖だった。
いつのまにか、私はローマ帝国の町にいる。「コンスタンティヌス大帝は、306年から337年まで在位した。父は軍人コンスタンティウス・クロルス、後に西の正帝となった人物だ。母ヘレナは宿屋で働いていたらしく、クロルスの最初の妻、二人はニーシュで結ばれた。コンスタンティヌス大帝はニーシュをよく訪れ、郊外には別荘地メディアナを築いている。ローマの貴族も競うように館を建てて、宮廷文化が花開いた……」。
登り坂になってすぐ左は、イスラム教のバリ・ベグ寺院の跡だ。オスマン帝国時代にはニーシュに13のモスクが作られ、10の寺院が城内にあったが、現在はわずか3つが形をとどめる。看板の観光案内によれば、1521年から1523年の建造、床は正方形で64平米、高さ約12メートル。当初は、ミナレットという尖塔があったらしい。壁面は、赤い煉瓦と灰色の石を組み合わせて美しい。「煉瓦や石材は、ローマ帝国時代の遺跡のものを使っている」とシーマ。再利用だ。隣接して1868年に、図書館が作られた。オスマン帝国が崩壊寸前の時期に、どんな書物を保管したのだろう。モスクの前には、ローマ帝国時代の建物の廃墟があり、煉瓦を雑草が覆う。1878年にミラン・オブレノビッチの率いるセルビア軍によって、ニーシュがオスマン帝国から解放されると、イスラムの寺院は破壊された。1970年代に修復され、今は「サロン77」という現代美術の画廊となった。
バリ・ペグ寺院とローマ帝国時代の遺跡 (Aleksa Skočajić アレクサ・スコチャイッチ撮影)
ゆるやかな坂道を行くと、右手はローマ帝国時代のフォルム、公共広場の史跡だ。本道より低い位置に広い草地が広がり、煉瓦の建造物の入り口らしいアーチが見え、奥は闇だ。
ローマ帝国時代の公共広場、フォルムの遺跡 (アレクサ・スコチャイッチ撮影)
「コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国に転機をもたらす。3世紀後半からキリスト教徒に対する激しい迫害が続いたが、313年のミラノの勅令でキリスト教を容認する。324年には東方正帝のリキニウスを破り、テトラルキア(四分治制)を廃止し、ふたたびローマを統一した。コンスタンティヌス大帝は、母ヘレナとともに西方教会でも東方教会でも、聖人とされている。大帝自身が、キリスト教徒だったかどうかは微妙だが、325年にキリスト教の司教たちを集め、第一回ニケーア公会議(全地会議)を開いて議長を務め、教義や経典などの統一をはかった。330年には、港町のビュザンティオンに、自らの名を冠したコンスタンティノープルを築いた。後の東ローマ帝国、つまりビザンチン帝国の首都だ。東と西の世界を結ぶ都市、後のオスマン帝国の首都イスタンブール。ニーシュから、コンスタンティノープルへ街道が続いていた……」
フォルムを前に、シーマは語った。「古代都市ナイススは、形而上的な都市だ。浴場や市場など、実用的な機能を持つ建物だけではなく、死後の世界や魂の世界に繋がる神殿を組みこんだ都市設計だからね。コンスタンティヌス大帝は、ナイススの神殿に、母と自分自身を祀っていたらしい。母親崇拝は、キリスト教の聖母マリア信仰にも通じる。母ヘレナと息子コンスタンティヌス大帝の関係を、聖母マリアとキリスト(ハリストス)になぞらえていると言える。ここから正面に、アーチ型の入り口があるね、あの地下が宝物殿だった。フォルムの広場に、ずらりと露店が並び、右側が神殿だ……」広場で聖と俗が交わっていた。
フォルムの位置がとても低いけど、と私。シーマは笑う。「長い歳月を経て、埃や塵で過去の建物は埋もれていく。ローマ帝国ができて2000年以上が過ぎている。毎年、少しずつ、史跡は埋もれていった。フォルムの中央から東西に石の敷かれた舗道があった。フォルムの左側にね、ヴィア・ミリタリスと呼ばれるローマ街道が通っていた。石畳のあとが見えるよ」とシーマが指をさす。彼の言葉によって、見えぬものが見えてくる。
「ヴィア・ミリタリスは、シンギドゥヌム(ベオグラード)から、ニーシュやソフィアを経由してコンスタンティノープル(イスタンブール)に至る道で、紀元後33年に作られた。ローマ帝国の都市のネットワークが形成され、宿場町も発達した。この街道をもとに、中世はビザンチン帝国、オスマン帝国の道が整備されていく……」
だがローマ帝国の城市ナイススは、442年にフン族の攻撃を受け、瓦礫と化す。476年に西ローマ帝国は滅び、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の時代が到来。6世紀半ばに、ユスティニアヌス大帝は32の砦を築き、ナイススを復興する。しかし、この世に永遠はない。6世紀後半にはドナウを渡ってスラブ系の民族が侵入し、615年にナイススを抑え、ローマン系の人々は町から消えた……。
突然、頭上で轟音が響き、私たちの声を遮った。すぐ上をジェット機が通って行く。機体にエアー・セルビアのマークが見える。こんなに低いところを……。ここからニーシュ空港まで3キロメートル、とシーマは空を見上げる。「いつの世も、ニーシュは政治、経済、交通、軍事のネットワークで要となる町だ。第二次大戦では、ドイツもこの町を狙った……」
すぐ先はラピダリウム、ローマ帝国時代の墓標が並ぶ。軍人や家族の肖像、葡萄の蔦や鳥、年や日付、地位などが大理石に刻まれている。この地で生涯を終えたローマの退役軍人やその家族が、ここに眠る。
通りの向こうは、オスマン帝国時代に建てられたパシャ(総督)の館だ。この先を少し行くと砦は終り、ビニック山が現れる。「山は自然の要塞だ。ニシャバの水、広大な平野、道。城を築くのに理想的な地理的条件だ」とシーマ。城址の終りの左手には、ローマ帝国時代の遺跡があり、八角形の床にモザイクがある。聖堂にも見えるが、謎だ。「考古学の発掘を本格的に始めたら、壮大な古代都市が現れるはずだ。今はその時期ではない。膨大な資金と時間がかかる」と、砦の傍らでシーマが語る。空が曇ってきた。
シーマの携帯電話が鳴る。「みんな凍えそう。戻ってきて」とゴルダナの声。太陽が傾きはじめた。時計を見て驚く。三時を過ぎていた。約2キロメートルの城の道は、数世紀の長さだった。
ニーシュの要塞から、ビニック山を望む ( アレクサ・スコチャイッチ撮影)
ローマ帝国時代の墓標、ラピダリウム (アレクサ・スコチャイッチ撮影)
レストランへ車を走らせる。塩漬けキャベツの葉で豚肉のひき肉を包んで煮込んだサルマ、牛のテールの煮込み。味わい深い。梨の火酒、マケドニアのワインはロゼ……。楽しい話と笑い声。いつしか、夜が来ていた。
ニシャバ川を渡り、シーマとゴルダナ夫妻の家に行く。庭は冬の匂いがした。明るい居間の壁に、ゴルダナの祖父ドラグティンの写真がある。長い髭をたくわえ、聖人みたい。ケーキと手作りのマルメロ・ジュース……。小説や旅の話が続く。「もう遅い。帰らなくては」とスロボダンが言った後も話は止まず、気が付くと10時を過ぎている。
スターナの家に泊まる。アレックスの部屋は快い。「コンスタンティヌス大帝の本がある」と、スロボダンが書物を下さる。「長い一日だったわね。明日は5時起き」とスターナ。古代から今日まで、歴史が大河のように身体を流れていく。清潔なベッドに身を横たえる。ブバニの鳥も眠っているだろう。窓に星が冷たく瞬いていた。
山崎佳代子(詩人・翻訳家)
1956年生まれ、静岡市出身。1979年、サラエボ大学に留学。1981年よりベオグラードに住む。詩集に『みをはやみ』(書肆山田)、『海にいったらいい』(思潮社)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『パンと野いちご』(勁草書房)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)ほか、『日本語現代文法』を著わした。
▼戦時下のセルビアの食を描いた山崎さんの著書『パンと野いちご』も是非。レシピ付きです。
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