『マル農のひと』試し読み
『マル農のひと』刊行を記念し試し読みを無料公開しています。瀬戶内海に浮かぶ島の農協で仕事をしながら道法正徳さんがたどり着いた魔法のような農法ができるまで。ギュッと縛って砂利を撒く驚きの農法はどうやって確立されたのか。2部では農法実践者のはなしを聞く。隠れキリシタン、水俣、原発…変なおっちゃんに連なるやっぱり変な農のひとたちのはなしから、色とりどりの人生が見えてくる。
はじめに
道法正徳さんは国内外を縦横無尽に飛びまわり、各地の農家を集めて講習会を開き、技術を伝えているおじさんだ。いわば「流しの農業技術指導員」。
道法さんが説く農法はあまりにも独特なので、初めて耳にした者は誰しも半信半疑になる。曰く、芽の伸ばし方、枝の切り方、実を摘むタイミングなどを工夫すれば、肥料を一切使わなくても作物は元気に育つ。そのうち農薬も不要になる。穀物もくだものも野菜もおいしくつくることができて、収量も増える。つまりこれは地球環境を守るとともに儲かる農業への道である……。
道法スタイルは既存の自然栽培や有機栽培とはまったく違う。もちろん肥料や農薬をたっぷり使う昔ながらの農協のやり方とはまるで相容れない。ところが道法さん自身がかつて農協の指導員だったというのだから、はなしは俄然おもしろくなってくる。
「……というね、いかにもあなたが好きそうな変なおっちゃんがいるんやけど。はなしを聞いて本にしたらどうやろ」
と友人に言われたのは、いまから3年前のこと。道法さんが東京に来る機会をとらえて、池袋の喫茶店で初めてお会いした。広島弁全開で、たまにベタな下ネタを折り混ぜつつ、革命的な農法について熱く語る道法さん。はっきり言って、ほとんど理解できなかった。なにしろこっちは農業の「の」の字も知らないのだ。おそらく道法さんは呆れたと思う。あちゃちゃ、こいつには革命を説く前にアンシャン・レジームを丁寧に説明する必要がある、と悟ったはずだ。
そこから、長い取材の旅が始まった。
道法さんのはなしを3年にわたって聞いた。東京で、広島で、出張先の地方都市で。車や電車で移動しながらインタビューすることもあったし、燗酒を注ぎ合いながらのんびりはなすこともあった。ご家族が同席してくれる機会もあり、そういうとき、道法さんの下ネタは鳴りを潜めた。
枝が伸びる仕組み、花が咲いて実になる流れ、なぜ虫がつくのか、太陽や水との関係など植物の基本から教えてもらった。農耕という、2万年以上前から続く、いまもなお発展途上である行為の奥深さを伺い知ることもできた。自分のなかにもある土や樹や花や実に触れるとホッとする心、その源泉を思ったりした。
しかしわたしがもっとも興味を惹かれたのは、道法さんという人間の特異なあり方だ。道法さんは瀬戸内海に浮かぶ島の農協で仕事をしながら、おそらくこれまで世界中の誰も気づかなかった農法にたどり着いた。この奇跡の最大の理由は、道法さんが「組織のなかにあってひとを見なかった」ことにあるとわたしは睨んでいる。
道法さんのはなしから、しばしば「組織のモンダイ」という普遍的なテーマが透けて見えた。そのたびにわたしは大喜びでメモをとった。
「組織のなかではな、余計なことをしたらむしろ評価は下がるんじゃ」
「なにかを変えるいうことは、前任者を否定することになるじゃろ」
「組織っちゅうところでは、みんなの足並みを乱すことが最大の罪じゃ」
あー、ひどい、バカくさい、おもしろい。げに恐ろしきは組織である。
どんなひとだって、太平洋戦争時の日本陸軍のはなしを読むと、はらわたが煮え繰り返り、人間の愚かさに絶望的になるだろう。「そっち向かっても絶対にうまくいかないってわかってんのに、なんでそっちに進む⁉︎」「みんな、目を覚ませ!」と叫びたくなる。いや、目を覚ましていても引き返せないことだって往々にしてある。ベトナム戦争の開戦時、アメリカ政府内でドミノ理論を信じていたひとはふたりしかいなかったというではないか。「このやり方は違っているよね」ってみんな内心思っていたのに、口に出せずに事態は進んでいっちゃったのだ。
そういうことは古今東西、組織の大小を問わず、あらゆる人間の所業のなかで繰り返されてきた。組織という点では道法さんが所属していた広島県果実農業協同組合連合会(以下JA広島果実連)も例外ではない。
わたしははなしを聞きながら、いつも興奮した。これは農業の技術革新のはなしであると同時に、組織のなかにあって真実を見る目が曇らなかった稀有なおっちゃんのはなしだ。なぜ道法さんが組織の愚かさに巻き込まれずに済んだのか。それは、道法さんが人間どもの声ではなく植物の声を聞き続けたからだ。
さらに旅は続いた。
本書の後半は、道法スタイルの実践者たちを訪ねたレポートになっている。お会いしたのは生産者が4人、大学の先生とワイナリーの経営者と地方公務員がひとりずつ。計7人のそれぞれに農の人生があり、圧倒されるはなしばかりだった。農業について取材しに行ったつもりが、思いがけず水俣病や福島原発事故の貴重なはなしを聞かせてもらう展開になったりもした。でも考えてみれば当然かもしれない。農業は環境問題やエネルギー問題と地続きなのだ。
変なおっちゃんから連なる先には、やっぱり変なひとたちが生きていた。みんな、この人生で与えられた任務を背負って今日も土の上を歩く。
1 農法を伝えるために、東へ西へ
飛行機は、広島空港にすとんと着陸した。それからのっそりのっそりと到着口に向かう。客室乗務員による「すべての電子機器がご使用になれます」のアナウンス。わたしは鞄のなかからスマートフォンを取り出し、電源ボタンを押し──その瞬間、電話がかかってきた。
「着いた?」
わはは、なんだこの絶妙のタイミングは。これぞ道法さんだなぁと笑ってしまう。道法さんは気遣いのひとであり段取りのひとである。ぐずぐずするのが大嫌い。「空港まで迎えにいってやるけえ」と言ったからには、ドンピシャの間合いで車を空港に横づけしたいのだ。きっと朝から徹底的に時間読みをしているに違いない。わたしはニヤニヤしながら飛行機を降りた。
そうしてたぶん、絶妙のタイミングを読む道法さんの力はやっぱりその生き方が深く関係しているんじゃなかろうか、とわたしは推測する。道法さんがふだん聞いているのは、人間の声じゃなくて、植物の声だ。常人とはまるで違う感度をもっているはずである。植物の声が聞こえるひとにとって、わたしがスマホの電源を入れたタイミングを察するなんて朝めし前だ、たぶん。
空港ビルを出ると、道法さんが笑いながら立っていた。
「ようこそ、広島へ」
明るいグリーンのダウンジャケット、ピンクのスニーカー。あいかわらず、しゃれている。
「白髪じゃから、明るい服を着るようにしとるんじゃ」
道法さんは照れくさそうに言いながら、近くに駐めた車まで案内してくれた。後部に農作業の道具や収穫物がたくさん積める大きな車だ。
「もともと服が好きなんじゃ。若いころはチャラ男じゃったしな」
車は、早春のやわらかい光のなかを走り出す。
道法正徳さんは1953年、広島県のミカン農家に生まれた。大学卒業後はJA広島果実連の技術指導員に。そこで30年ほど、主にミカン農家の指導を受け持った。その途中で、とんでもない農法にたどり着いてしまった。肥料も農薬もほとんど使わず、手間をかけず、それでいてミカンが甘くなる、収量は増える、魔法のような農法だ。
ウソだろ、とみんなは言った。第一そんなやり方は、肥料や農薬を販売している農協の方針とは折り合わない。
「それでまぁ、左遷に次ぐ左遷じゃ」
左遷に次ぐ左遷というフレーズを言うとき、なぜか道法さんはうれしそうな顔をする。結局、52歳でJA広島果実連をやめた。
現在はいわばフリーランスの農業技術指導員。教えを乞いたいと願う農家が全国にいて、道法さんはせん定バサミを手に今日は東へ、明日は西へと走りまわっている。ときには海外からの依頼もあって、アフリカでも南米でもひょいひょいと出かけていく。
「世界中から声がかかるって、すごいですね」
「レジェンドじゃからな。って自分で言うたらダサいか。わはは」
2 え? 縛るだけでいいの?
笑っているうちに車は山口県に入った。その日、周防大島で道法さんのセミナーがあり、参加させてもらうことになっていた。昼過ぎに会場に着くと、すでに50人以上の受講者が集まっている。地元のひともいれば、山陰や九州からはるばる道法さんのはなしを聞きにきたひとも。ベテラン生産者から新規就農者まで、農業の経験年数にも幅があるようだった。ただ参加者に共通しているのは、みんな無肥料・無農薬栽培や有機栽培に興味をもち、模索している農家であること。
隣の席のおじさんに、なんで道法さんのはなしを聞きにきたのかと問うと、
「消毒とか滅菌とか害虫駆除とか、そういうことをしないで農業ができたらいいのに、とずっと思ってきた。自然に対して傲慢じゃない生き方ができて、それが職業としても成り立つならばどんなにいいだろうと思ってねぇ」
と語っていたのが印象深い。理想の生き方とお金儲けの方法が一致したら、ほんとうに最高だ。
「私のやり方は、とにかく縛るんです」
道法さんは、スクリーンに畑の野菜やくだものの写真を映し出していった。ミカンの苗木、トマトの枝、ブドウのつる、大根の葉っぱ。どれもが見事に縛られている。
「こうすると肥料なんかいらんのです。肥料やるよりよっぽど元気に大きく甘く育つんじゃから。縛るだけでいいの」
え? 縛るだけでいいの? ざわつく会場。一般的には、くだものの苗木や野菜を植えたら肥料をやるのが当たり前。有機栽培の場合は、動物の糞や落ち葉を集め、発酵させて堆肥をつくる「土づくり」こそが基本だと考えられている。それをなんだと? 「縛るだけでいい」だと? みんな、にわかには飲み込めない顔をしている。
「みなさん、そんなことでうまくいくんかと思うでしょう。農業技術の教科書には書いてないし、これまでの常識にはないことじゃ。でもピーター・ドラッカーっちゅう有名な経営学者は言ったんです。『理論は現象の後追いである』って。実際にやってみたらわかるんじゃから」
道法さんは自信満々に語る。縛りさえすれば、肥料をやる必要もわき芽を摘む必要もないから手間が省ける。それに害虫や病気にも強くなるから農薬もぐっと減らすことができる。味もよくなるし、たくさん実る……。って聞けば聞くほどいいことずくめで、はなしがうまくできすぎていやしないかと訝しくなるほどだ。
「枝を縛ったら、甘いミカンがたくさんできるんじゃ」
会場から質問が飛ぶ。
「くだものも野菜も、縛るのは同じなんですか?」
道法さんは大きくうなずき、もっともらしく語った。
「犬でも猫でも、ひっくり返しておっぱいを触るとキャインキャインって喜ぶでしょう。動物はみんな同じ、ね。それと一緒で、果樹も野菜も元気になるのは同じ仕組みなんです」
ぎゃはは、なんだそりゃ。わたしはのけぞりながらも、なにやら捨て置けないものを感じた。なにしろ道法さんは植物の声を聞くことができるひとだ。おっぱいキャインキャインと道法スタイルの農法には深い関係がある。のかもしれない。
3 チャラ男、技術指導員になる
道法さんが生まれたのは広島県豊田郡(現・呉市)の豊島。いまは本州と橋でつながっているが、かつてはフェリーを2本乗り継いで渡るのどかな離島だった。家業はミカン農家。上にお姉ちゃんが3人いて、道法家待望の男児だったというから、さぞ大事に育てられたのだろう。「4歳まで母ちゃんのおっぱいを吸っとった」らしい。
長男坊は、幼いころからミカン農家を継ぐ気満々だった。高校は、家を離れて愛媛大学農学部附属農業高等学校に進学。そこで学問に熱中……はせず、おしゃれに目覚めた。「島の出身だからとバカにされてはいけない」と、VANジャケットを扱う洋品店に入り浸った。ギターもやった。バイクにも乗った。「徹底的に軟派の道を極めたんじゃ。そら、決まっとるじゃろ、女の子にモテたい一心じゃ」
卒業後は花のお江戸の大東文化大学へ。アメリカンフットボール部に入部するもチャラ男生活は続いた。ある日、行きつけの喫茶店でともちゃんと出会う。かわいくて、弾んでいて、めちゃくちゃ明るい女の子。道法さんはプッシュしまくり、ついにともちゃんを振り向かせた。プロポーズのことばは以下の通りだ。
「ギンガムチェックのシャツを着て、オーバーオールのジーンズを履いて、ぼくと一緒にミカンをつくろう」
にひひひ。チャラさ全開。
大学卒業後、広島県果樹試験場で専門知識を学んだ道法さんは、JA広島果実連の技術指導員にならないかと誘われた。「いずれは実家のミカン農家を継ぐつもりじゃったけど、勉強のために指導員をやるのもいいかもしれんな」と軽い気持ちで引き受けた。
最初の赴任地は瀬戸内海に浮かぶ大崎上島。当時、島には5つの農協があり、そのうちのひとつ木江町農協が道法さんの職場となった。農協(農業協同組合)は戦後にできた組織で、農家の生活全般を支えている。肥料や農薬や農業機械を供給し、農業のやり方を指導し、できた農産物を売り、さらにはお金を預かったり貸したり銀行のような役目も果たす。ホームページに「JAはニックネームです」と書いてあって、ああそうなのか、と思う。ジェームス・ブラウンを「JB」って呼ぶみたいな感じか。
1978年、東京のともちゃんも大崎上島に嫁いできた。ともちゃん、すなわち知江さんは当時を振り返って言う。
「島の暮らしにはびっくりしたわよー。玄関の鍵なんて誰もかけない。だから、近所のひとがどんどん家に上がってきちゃうの」
木江町農協の組合員には約300戸の柑橘農家がいて、技術指導員は道法さんひとりだった。担当する作物はミカン、伊予柑、ネーブル、はっさく、甘夏。試験場で学んだ技術と『柑橘』(養賢堂)という教科書を頼りに、どの肥料をどのタイミングでどれくらいまいたらいいか、せん定は、農薬は、摘果(果実の間引き)は……と1年間つきっきりで指導する。目指すは甘いミカン、きれいなミカン、そしてとにかく収量を多く! である。
道法さんが技術指導員になった昭和50年代、ミカン栽培は受難の時代を迎えていた。つくればつくるだけ高値で売れた時代は去り、全国的にミカンの値が安くなっていたのだ。ミカン農家は希望を失い、なかには除草剤を飲んで命を絶つ者まで出た。
「あのころの除草剤は濃かったけえ、飲めばすぐ死ねた」
道法さんは、事実を事実として淡々と言う。自殺者が出たあと、除草剤は薄めて販売されるようになったとか。ミカン栽培を諦めて、伊予柑、甘夏、ネーブルなど単価が高い柑橘に切り替えた農家もいるし、家のローンや子どもの学費を捻出するため泣く泣く離農するひとも多かった。
ミカン農家に生まれ育った道法さんは、季節ごとにミカン農家が体験するおもしろさも不安もよく理解できた。何年もかけて大きく育てたミカンの樹を手放す決断の重み、悲しみはひとごととは思えない。それで奮い立った。
「どうしたら1円でも高く売れるミカンができるか?」
必死に模索していくことになる。これまでに試験場で習ったり先輩から教わったりした方法をすべて取り入れて指導に当たった。ミカン農家もまた、真剣に取り組んだ。みんながよかれと思って動いていた。だがしかし。「よかれと思って」の罠は人生のいたるところに落ちている。
4 すべては、ひとつの疑問から始まった
「最初の疑問はせん定じゃった」
と道法さんは語り出す。
せん定とは、樹の枝を切って樹形を整えること。ミカンを含む多くの果樹では、春先のせん定がなにより重要視されている。どの枝を切って、どの枝を残すか。その判断によって収穫量やミカンの出来が変わってくる。
当時は─そしていまも多くの農家では─「日当たりがよければミカンが甘くなる」と考えるので、ゆくゆく日陰をつくりそうな上部の枝(これを立ち枝という)をあらかじめ落としておくのがせん定の基本。さらに「樹形を美しくする」のもせん定の大事な要素とされていた。そうすれば、樹全体に日光が届くし、樹の上のほうに実がつくことがないので収穫もしやすい。
道法さんのような技術指導員は、毎年1月から2月にかけて「せん定講習会」を開く。担当地区のミカン農家を集めて、彼らの目の前で実際に枝を切って見せるのだ。まずは、みんなが集まりやすい立地でそこそこ広いミカン畑の持ち主に「おたくのミカンの樹をせん定講習で使わせてください」とお願いする。「いいよ、好きに使ってくれ」と色よい返事がもらえたら、さて畑のなかのどの樹をせん定するかが問題だ。
「せん定講習で使った樹にいい実がならんかったら赤っ恥じゃろ。だから、事前にこっそり偵察しとくんよ」
道法さんはあらかじめひとりで畑を見まわって、その年にたくさん花をつけそうな樹に目をつけておく。そんなことはおくびにも出さず、せん定講習の当日には涼しい顔で言うのだ。
「さあて、どの樹を切りましょう? みなさん、好きなのを選んでください」
どの樹でもうまく切ってみせますよ、というそぶりを見せながら、さりげなーく事前に目をつけた1本に近寄っていく。
「あ、この樹は枝が暴れてますねぇ。じゃ、これを切ってみましょうか」
なんて、さもその場で決めたかのようにせん定する。ふふふ、聴衆を巧みに誘導する手品師みたい。すると半年後、道法さんがせん定指導に使った樹にはたくさんのミカンがなって、「さすが道法くんじゃのう」と褒められることになる。何十年もミカンをつくり続けてきたベテラン農家を相手に若い指導員が渡り合っていくには、それなりの裏技が必要なのだ。せん定講習、大成功!
そこまではいい。問題は翌年だった。
前年のせん定講習会で道法さんが枝を切ったミカン、次の年になると実がうんと少なくなる。「あれ? 去年はあんなになっとったのに、今年はどうしてならんのじゃろ」と思いながらも、「たまたまかな」とひとまず疑問を放置して、日々の指導に走りまわる道法さん。しかし次の年も、次の年も、「せん定講習で使った樹は、翌年になると実が激減する」という現象が続いた。2年に一度しか実がならないことを「隔年結果」という。
「私が切った樹だけ隔年結果になる。理由はわからんまま。だから毎年、せん定講習をする畑をさりげなく変えたよ。こっちもボロが出んようにと必死じゃ」
なんでじゃろ……と首をひねりながらも、表向きは堂々とせん定講習を続けていた道法さんだったが、あるとき決定的なことが起きた。100本くらいのミカン園から「せん定を指南してほしい」と個人レッスンを頼まれた。道法さんは出かけていって、せん定のコツを伝えながら3本の樹の枝を切ってあげたという。
「せん定のやり方、わかりました? こんな感じで、あとは自分でやってみてください」
と言って帰ったのだが、残りのミカンはいつまでたってもせん定した気配がない。ずぼらなミカン農家に道法さんは怒った。
「なんじゃ。せっかくやり方を教えてあげたのに、なんで残りの樹をせん定せんのじゃ。もう二度と教えてやらんぞ!」
ところが秋に、驚くべき事態が待っていた。道法さんがせん定した3本には見栄えの悪い、糖度も低い、二級品のミカンがなって、残りのほったらかしの97本に最高級のミカンがなったのだ。せん定の意味ないじゃん! っていうか、むしろマイナスじゃん!
幸いその農家は養豚業をしていて、ミカンだけで生計を立てているわけではなかったので、道法さんの失敗は追求されずに済んだ。でもこの経験で、道法さんはこれまでずっと避けてきた疑問と向き合わざるを得なくなった。
「自分のせん定のやり方は、つまりJA広島果実連が推奨しているせん定のやり方は、まちがっているのではないか?」
道法さんは自分がせん定したミカンが隔年結果を起こすたびに「まだ切り足りないのか? もっと枝を落とせば隔年結果にならずに済むのか?」と考えて、ハサミを持つ手に一層力を込めていた。でも目の前には97本のなにも手を加えなかった樹にミカンがおいしく実り、枝を落とした3本の実がダメダメだったという厳然たる事実がある。そこで初めて疑った。
「もしかして、切りすぎている……?」
切りすぎるせん定を「強せん定」という。おずおずと自分の考えを打ち明けた道法さんに、先輩たちは言った。
「たしかに、度が過ぎる強せん定はよくないとも言うな。でも講習会じゃから、ちょっと大げさにやってみせるくらいでちょうどいいんだ。目的は樹形をはっきり見せることだから、この際、品質は二の次でいい」
ん? なんだって?
わたしは混乱した。わざと大げさに切っているのだから、その樹にはいいミカンがならなくても仕方ない? 隔年結果になるダメな方法を教えて、意味ある?
道法さんは笑っている。
「冷静に考えたら意味ないじゃろ? でも先輩にまちがってないって言われたら、こっちはそれ以上なにも言えんよなぁ」
『マル農のひと』
文・絵:金井真紀
取材協力:道法正徳ほか
装丁:矢萩多聞
定価:本体1700円+税
46判並製/248ページ
2020年8月末発売予定
978-4-86528-2887-6 C0095