【試し読み】和田靜香『50代で一足遅れてフェミニズムを知った私がひとりで安心して暮らしていくために考えた身近な政治のこと』
はじめに 老いているのだ、着々と。
ことのほか暑さの厳しかった2022年、コロナ禍三度目の夏のことだ。私は57歳になっていた。なぜだか朝に夕に身体のあちこちがこわばり、疲れやすく、動悸が激しい。しばらくクヨクヨ悩んでから病院に行き、「とくに問題はないです」と言われたものの、医師と相談して定期的に薬を飲むことになった。小さな錠剤をぷちんと毎朝1粒取り出すたび、「年をとってきたのかもしれない」と思った。
年齢で人をくくるのは良くない。それはエイジズムであり、偏見だ。とはいえ年相応に体に気配りして暮らす大切さを、ひしひしと感じた。ついこのあいだ「サンキューおやさい39歳」とか笑っていたのに。ライターの仕事が激減して、コンビニでバイトを始めた時私は44歳だった。初めてレジの向こう側に立った時の焦る気持ちは、掌に汗をかきそうなほどリアルに覚えている。そのころから私は何ひとつ変わっていないはずが、どうやら確実に変わっている。
老いているのだ、着々と。
以前は母に「靴下を履きなさい」と言われるのがうっとおしく、あっちこちに脱ぎ散らかしていたのを毎日しっかり履くようになった。千葉県勝浦市に住んでいたおじいちゃんが、真夏でも家の中で毛糸の帽子をかぶっていたのは「正解」だと知った。冷えが即、痛みになって襲ってくる。
そしてここ数年、明け方4時ぐらいにときどき目が覚めていたのがより頻繁になった。夜なのか朝なのか、どっちつかずで落ち着かない空気が流れる時間帯に目が覚めると、心は振り子のように揺れ動き、心臓がバクバク音を立てている。深呼吸し、胸をさするけれど、不安はむくむくとふくらんでいく—今日はひとりでなんとか暮らしていても、そのうちいろんなことが大儀になり、ふだんの生活そのものが難しくなるのかも? 私はひとり暮らしでずっと働き続けたいけど、可能なのだろうか? 住まいはどうなるんだろう。借り続けることはできるだろうか? ああ、どうしよう、どうしよう。なんとかしなきゃ。
居ても立ってもいられない気持ちになってやみくもに立ち上がり、こわばる足を引きずって台所に行き、ヤカンにジャーッと蛇口から水を注ぎ、シュンシュン沸かし、マグカップでフウフウ言いながらゴクゴク飲む。スマホを開いて無意味にツイッターなど見つめる。ツイ廃か? ふーっ。
少し、思い直す。私がひとりあたふたし、「なんとかしなきゃ」じゃない。私のようにひとりで暮らす女性が、年をとっても安心して生きられる社会であるべきなのだ。私自身が変わるのではなく、社会がそういう風になるよう声をあげていきたい。コロナ禍で絶望の淵に立った時、初めて政治を真剣に考えた本を2冊も書いた私が学んできたことは、それじゃないか。
個人的なことは政治的なこと— 長くフェミニズムで言われてきたスローガンだ。私たち女性が日々の生活で感じる個人的な悩みには、実は政治が深く関わり、構造的な問題がそこに横たわっている。それを自分の胸にストンと落としたい。自分が暮らしやすくなるよう、社会をトントン補修工事していく。私が社会に、政治に、参加していくことこそ大切なのだ。
そうだ、社会を、政治を変えるのは、私だ。でも、どこに向けて声をあげたら届くんだろうか? そもそも私はどうしたい? 年をとっていく私が未来に向かって安心して暮らせる社会は、どういうもの? どうしたら作れるんだろう?
気がつけば57歳になって、60歳も目前だ。今日を生きることに必死すぎて明日は考えられず、老後の生活とやらには知らん顔をしてきたけど、「自分は高齢者だ」と自覚せざるを得ない時が迫っていることを痛切に感じ、焦る、焦る。はー、ふー(深呼吸)。いや、焦らないで、まずは、靴下を履こう。そして、じっくりと、私のこれから先の暮らしを考えていくことにしよう。私はそう、決意していた。
第一章 私はフェミニズムを知らず、間違え、苦しんできた
コロナでバイトをクビに。我が人生、詰みにけり
それで私は東京・新宿から「湘南新宿ライン」に乗って1時間15分、神奈川県西部にある大磯駅に降り立った。2022年4月末のことだ。
何を唐突に言っているのか? ごめんなさい。だいぶ端折りました。順を追って話します。
遡ること2021年の夏、私は『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか? 国会議員に聞いてみた。』という、やたら長いタイトルの本を出した。衆議院議員の小川淳也さんと対話を重ねて作ったこの本は、「ひとり暮らす中年女性である私の生きづらさをどうしたらいいのか、さっぱりわからないんですけど?」という、むやみな問いかけから始まっている。
いきなり国会議員にそんなことを聞きに行ったけれど、元々政治に関わる仕事をしていたわけではない。19歳で主に音楽について書くフリーランスのライター業をぼちぼち始め、二十代、三十代はバブルな時代とも重なって、なんとかやっていた。40歳を越えるころから生計を立てるのがだんだんと難しくなり、冒頭にチラッと書いたようにアルバイトとの二本立て生活を送ってきた。ライターとしては、徐々にそうした迷走する我が人生を書くようになった。独身で、ひとり暮らし。コロナが流行る前にはバイトを二つかけ持ちして西へ東へ自転車をグォーッと漕いで、昼に夜に働いていた。仕事が終わった夜9時近く、売れ残って値引きされたお弁当を買ってはホクホクして家へと帰る。そういう人は今、いっぱいいるだろう。正直、やってる時は「ああ、これで家賃が払える」とホッとして悲壮感はないのだが、身体が疲れて疲れてたまんなかった。
それがコロナ禍直前に一つクビになり、直後にもう一つもクビになってしまい、我が人生、ここで詰みにけりと感じた。もはや「書く」以外に道はなし、と腹をくくったとも言える。どん底の「底」で、私は書くことを決めたんだ。そして始めた小川さんとの対話、本作りは、私の人生を賭けたものだった。政治なんて何ひとつわからないけれど、でも、考え、尋ね、また考えた。生きづらさは私のせいじゃなく、日本社会の構造に原因があり、それを変えていくために私たち市民こそ政治へ参加していこう! そう学んだつもりだ。とはいえ、パニクるとすぐ忘れ、そして、また思い出す。その繰り返しだ。
そうした対話の中で一度「女性の働き方」、とくに「女性の非正規雇用労働者は男性の倍以上」をテーマに話し合ったことがある。小川さんに尋ねる前にまず「雇用すら不安定なのに“輝け”って言われることが女性を苦しめている」と、私が話をした。
覚えていますか? 2012年、第二次安倍政権のスタートと共に当時の安倍晋三首相が、「すべての女性が輝く社会を推進する」と発表したことを。これは女性を幸せにする!というような政策では決してない。女性は家事や育児に介護、家庭の無償ケア労働も引き続きよろしくNe! それと同時に外に出て働いて賃金を得て、経済をぐるぐる回してくださいYo!という、ムチャ振りな成長戦略だった。ムチャすぎるので、ラップ語尾にしてみました。しかし、それを“輝く”って呼んでいたんだから、世にも奇妙な物語すぎる。何ですか、それ?と眉根をひそめて聞きたい。
さらに2015年8月、安倍政権は「女性活躍推進法」を成立させる。これは女性が働きやすい環境づくりについて、企業側に一定の認識を変えさせはしたらしいけれど、それとて一部上場企業とかの正規雇用においてだけの話じゃなかろうか。2015年当時、総務省の「労働力調査」によると、役員を除いた雇用されて働く全女性2388万人の内、1345万人が非正規雇用だった(56.3%)。半数しか正規雇用がいない中、その実効性は疑わしいし、かえって輝きたくても輝けない非正規の女性たちが「私は輝けないダメな人間だ」と自己卑下し、自らを追い詰めていったのは私自身が実感していた。ちなみに2022年では、非正規雇用で働く女性は1432万人(53.4%)だ。
ああっ! 女性残酷物語かよっ! こんな話を2021年初めごろ、まさにそのおひざ元、国会の議員会館で私はしてたんだ。この私こそが、バイトかけもちで、その帰り道には売れ残りのお弁当を半額で買ってはホクホクする、一瞬も輝けないと感じていた当事者だというのに! そして私の演説(?)が終わってから「この正規雇用と非正規雇用の割合の男女差、これでいいと思ってますか?」と、乱暴な口ぶりで問い詰めるように聞いた。すると、「いいとは思っていません」と前置きがあってから、非正規雇用の在り方をどう変えていくかを小川さんが語った。
ふむふむ政策を聞きながら、その答えになんだかモヤる。政策には頷けても、もっと働く私たちに寄り添ってよ!と思ったし、「なんで社会はこうなんだろう?」という女性が女性ゆえに背負わされる疑問が小川さんにははっきりと見えていない気がした。寄り添いに関してはその後に小川さんへ手紙を書いて、それからのやりとりを本に書いた。でも、「なんで社会はこうなんだろう?」という疑問を、たとえベテランの政治家であっても男性である小川さんに「どうしてそうなると思いますか」と尋ねるのは違うかなぁ〜と思ってしまった。今になれば、だからこそ聞けばよかったと心残りだ。
そもそも女性と男性では同じ権利や選択肢があってしかるべきなのに、「そうじゃないとき」が多いと思う。しかも、「そうじゃないとき」が多いなんて言うと、「べつに男だから女だからとか関係ないだろう?」とムッとされることがある。でも、「そうじゃないとき」が多いのはどうしてなのか? 本当は私たち、男性ともていねいに話しあっていくべきだ。聞いても答えなんて出てこないかもしれない。時には怒鳴られ、イヤな思いをするかもしれない。でも、それを重ねていくことで、あなたにも関係あることなんですよ!とわかってもらうことが大事だと思う……。言うは易し行うは難しなので、こう書くことで、よろしくご理解頼んだYo! 強い期待を込めて、ラップ語尾にしました。
#MeToo運動は遠い外国のこと
しかし、そう言っている私自身がかつて自分には「そうじゃないとき」なんて、ないと思いこんでいた。「女性だからってことでとくにイヤな目に、私は遭ったことない」と言う人がいるけれど、それは私でしたとおずおず挙手をする。ハッと目を開かされたのは、2019年1月。俳優でアクティビストの石川優実さんが、職場で女性だけがヒールのあるパンプスを履くことが義務付けられているのはおかしいと訴えた、#KuTooの一連のツイートだ。ずいぶんと最近ですね? はい、そうなんです。
その前に#MeTooムーブメントの風が吹いていたころは、「へ〜?」と他人事に見ていた。#MeTooとは、「私も被害者である」と発信することで性暴力やセクハラを告発する運動のことだ。2017年にアメリカで始まり、世界に広がった。フランスを代表する俳優カトリーヌ・ドヌーヴが「被害の告発が今日あらぬ方向に大きな影響をもたらしています」と#MeTooを批判して大炎上した発言を読んで、そうだよね、彼女たちは被害者だからってさ、ちょっと言いすぎだよねなんて私は言って、声をあげた女性たちを批判していたんだ。石川さんの『#KuToo 靴から考える本気のフェミニズム』(現代書館)に「女性差別は必要悪だと思ってる系」というコラムがあるが、自分はまさにそれだったと思う。
たとえば私は元々音楽ライターだけど、カナダのシンガーソングライター、アラニス・モリセットが1995年に大ヒットさせた『ジャグド・リトル・ピル』というアルバムが大好きだった。ドスの効いた歌唱で自分の感情を思うままに発露させ、女性の表現の幅を広げた一人だ。私はとにかくその声にホレこみ、カッケー!と絶賛していた。なのに周囲の音楽評論家たちが彼女の歌を「女のヒステリー」呼ばわりする声が聞こえると、「やばいやばい、私ってズレてる?」と一緒になって「いるよね、こういう女性。人のせいにして怒ってばかり」とか、したり顔で原稿に書いた。ずっとそんなだった。
でも、#KuTooに出会い、目を開かされた。#KuTooとは、靴と苦痛と#MeTooをかけあわせている。「私はいつか女性が仕事でヒールやパンプスを履かなきゃいけないという風習をなくしたいと思ってるの。専門の時ホテルに泊まり込みで1ヶ月バイトしたのだけどパンプスで足がもうダメで、専門もやめた。なんで足怪我しながら仕事しなきゃいけないんだろう、男の人はぺたんこぐつなのに。」という石川さんのツイートは、バイトとか、専門(学校)とか、パンプスがダメとか、私に身近な言葉だから共感できた。#MeTooが巻き起こったころはバイトをクビになり、お金のことで悪戦苦闘していたのでそれどころじゃなかったとも言えるし、共感する言葉に出会えてなくて、今ひとつ乗れなかったのかもしれない。遠い外国のことだと思っていた。
とはいえ、#KuTooでフェミニズムを知り、あれこれ本を読んで学び始めると、けっこう苦しかった。新しい概念が入ってきて、自分の過去の行動や考え方を「あれは間違えていた」と否定することになる。石川さんのトークイベントへ行って聞いた考え方に、シューンと落ち込んだりもした。
自分にかかる重みをズシリ感じることはあっても、フェミニズムの言葉を知らず、故に概念を知らず、苦しいことがあたりまえで、その原因が「女性だから」とは微塵も思わなかった。何かあれば、たちまち「わきまえて」自ら一歩引き下がる。「わきまえない」女性のことは罵る。ずっとそうしてきたと思う。私は知らなくて、間違えて、苦しんできた。
今こそ、ゆっくり思い出していきたい。女性と男性では同じ権利や選択肢があってしかるべきなのに、「そうじゃないとき」はいっぱいあって、私を息苦しくした。
1985年、私はラジオ番組への投稿が縁で、音楽評論家で作詞家の湯川れい子さんの東京・四谷にあった事務所兼自宅で、アシスタントのアルバイトを始めた。高校生のころから湯川さんのラジオ番組「全米トップ40」(ラジオ日本)にせっせとハガキを書く、ハガキ職人だったんだ。あるとき、「就職試験にぜんぶ落ちちゃってー」とハガキの隅に書いたことから、湯川さんが「うちでバイトしませんか?」と声をかけてくれた。びっくりして棚からぼたもちがぼたぼたと大量に降ってきたと思った。
当時、湯川さんは「恋におちて」や「六本木心中」といった歌が相次いでヒットし、作詞家として超のつく売れっ子だった。しかも音楽評論家としてもテレビや雑誌に新聞とあらゆる媒体から引っ張りだこで、朝から晩まで仕事に追われ、まさに息もつけないほど。
当然、家事や子育てといった家庭内のケア労働には自らお金を払い、多くをお手伝いさんやベビーシッターさんに任せていた。夫と小学校低学年の息子がいたが、夫はいわゆる昭和の男性像そのもの。ケア労働には我関せずで、湯川さんにほぼ任せっきり。「今夜、夫婦共に出かけるけど、息子と一緒に誰が家で留守番するのか」ということを心配するのは、仕事に追われ、原稿を必死に書く、湯川さんの役目だ。おじいちゃんとかおばあちゃんとかシッターさんに電話して、「今夜いらしてもらえますか?」とお願いするのは私の仕事の一つだった。土曜、日曜、時には私も呼ばれ、息子やその同級生らのサッカーの相手をしたりもした。
ちょうどそのころ「男女雇用機会均等法」(1985年)が成立し、「働く女性」が世間をにぎわすキーワードになっていた。テレビで、スーツ姿で働く女性たちの姿が何度も特集されていたのを覚えている。当時四十代だった湯川さんは、まさにロールモデルの一人だったと思う。働く女性、その最先端にいた。
時はバブルへと突入したころである。本屋さんやコンビニに並ぶ商業雑誌はもちろん、得意先に配るものなのか? 企業のPR誌なるものがたくさん発行されており、湯川さんのもとには、そういうところから次々インタビューのオファーが舞い込んでいた。「はい、いいですよ」と引き受けるものの、やってくるインタビュアーたちはどいつもこいつも……いやいや、えっと、みなさん、あたりまえのように「作詞家と音楽評論家、仕事で大活躍しながら、母として、妻として輝く湯川さん」と褒めたたえ、その人たちが理想とする輝く女性像を押しつけてくる。インタビュアーたちには、もちろん悪意はない。褒めているつもりなのだから。湯川さんはそれに応えてニコニコ笑顔をふりまいて、理想の女性像を演じさせられていた。誰がどう考えたって、すべてを完璧にこなすなんて無理なのに。
それを横目で見聞きしながら私は「何を言ってんだよ」とつぶやいていた。湯川さんが仕事をする書斎の片隅に私のデスクも置いてあった。しかし、つぶやきはインタビュアーではなく、愚かにも湯川さんに向けていた。「家庭のことをおろそかにして、何が仕事だよ?」と、あらぬ刃を向けていたのだ。私こそ、「女性が輝けば、世界は輝く」と言った安倍晋三そのものだった。なんて愚かだろう。20歳の私は女性が重い荷を背負わされ、いかにたいへんな道を歩んでいるかなど、微塵もわかっていなかった。
わかっていないから、秘書としてフレーフレーと応援すべき湯川さんへの労いやら尊敬に徐々に欠けるようになり、一歩引いたどこか冷めた表情で接するようになってしまった。ハガキ職人になるほど熱い思いをしたため続けた人のもとでせっかく働き始めたのに、その喜びは損なわれてしまい、もっと学べることもあったろうに6年ほどで退職をした。湯川さんを襲った「そうじゃないとき」が、私の人生をも歪めてしまったんだ。
(中略)
かように思い出していけば次々自分にも、女性と男性では同じ権利や選択肢があってしかるべきなのに、「そうじゃないとき」がいっぱいあって、人生そのものが大きく変わったり、自分の行動が抑制されたり、自己否定にもがき苦しみもした。こっちからあっちへ、わあああああ!と走り出したいような気持ちになったりも。私はそれを変えていきたいんだ。「個人的なことは政治的なこと」ならば、「こういう女性を苦しめる社会を作ってきたその構造、概念、それに疑問を抱いて根本から変えていきましょうよ」と言いたい。それは、「こういう社会を作ってきた日本の政治を変えていきましょうよ」ということだ。これから年をとっていく私が、安心して暮らせる社会を作るために、やっていかなきゃ。
と、話がまた先へ先へ行ってしまう。そうそう、2021年の私は小川さんと女性の非正規雇用の話をしていた。でも、「どうして社会はこうなんだろう?」という女性が背負わされる疑問の根っこが見えなかった。それで私は、やぶから棒に小川さんに言った。「なんで、私はパリテを進めてほしいんです」と。すると、小川さんは「当然ですよ、それは」と即答した。ああ、よかった。そして、言ってから「そうだよね、そうだ、そうだ」と、言った自分にハッとした。そうだ、私にはパリテが必要なんだ、と。