「苦手」は逃げるための言い訳だった
私は文章を書くのも話すのも苦手
中学の時、クラス代表で英語のスピーチコンテストに出ることになり、
(出たくなかったけど先生に出させられた)約500名の前に立った時、緊張しすぎて原稿がすっ飛んだ。これがちょっとトラウマになっていたころもある。だからYouTubeで顔出しで話すなんて考えられなかった。
さらに子どもの頃、運動も苦手だった。3月生まれで成長が遅かったのもある。習っていた水泳はできたけど、逆上がりも跳び箱も苦手だった。だから同級生にトレーナーをしていると言うと驚かれる(笑)。
苦手だったからこそ、運動が苦手な人の気持ちがわかる。やり方によって害になる事例もたくさん見てきた。克服してきたことは「こうすればよくなる」というのがわかる。
体調不良を経験して克服し、いろんな事例を見てきたて「こうすればよくなる」というのがわかるようになった。
しかし、文章に対する苦手意識が拭えない。
だけど「苦手」って逃げるための言い訳だと思えた書籍に出逢えた。
以下、山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室」から抜粋させていただきます。
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いま、多くの人が、受験を克服し、大学まで行って、高い授業料を払い、コツコツ真面目に4年間勉強して大学を出ても、自分の想いを日本語でしゃべれるようにならない。そのことに、言いようのない憤りがつきあげてくる。
一方で、自分の想いを実感のこもった言葉にし、人の心に響く域まで表現できる学生もいる。その差は何なのか?
センスではない。
文才でもない。
理系・文系でもない。
単にアウトプットの場数の違いだ。
「お勉強」はもういい
いつまでスケートのビデオを眺めて、いつか滑れる、みたいなことをやり続けるのか?
表現力は、就職とか、受験とか、何か先のものごとを通過するための手段なんかじゃない。
いまをつかむためだ。
いまをもっと面白がるためだ。
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人が、ものを書くとき、じつは、無意識に、かなり高度な、関係づけをやってのけています。書くことがうっとうしい理由のひとつはここにあります。
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驚くのは、関係把握にすぐれた人が、基礎をコツコツ、コツコツ積み上げた、努力の人だということです。素晴らしい関係づけの能力を発揮する子も、特別なことはやっていないのです。
「読む→考える→書く」これを第三者から見て批評してもらって、また、
「読む→考える→書く」これだけです。
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勉強の席で、「読む→考える→書く」をあらたまってやるか、
日常生活の中で、「聞く→考える→話す」を自然にやるか、
どちらにしてもコツコツやり続ける生活があって、はじめて、人は、自分の身近なものから、しだいに自分と距離のある人や問題に対しても、「リンク」をはれるようになっていきます。
そして、未知の相手や、未知の状況の中で「理解する→考える→表現する」術を、試し、磨き、工夫する機会は、学校でも、日常生活でも、だれにでもおとずれています。
年のわりに関係把握が弱い人は、なんとなくその機会を逃してきてしまったのではないか、やった人と、なんとなくやらずにきてしまった人の差、ではないかと、いま、私は考えています。
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まさに私のことだ!と思えました。
それも、子どものとき「親が話を聞いてくれる人じゃなかったから」と、どこかで言い訳して……。お恥ずかしい。
単なるハウツー本ではなく「考える」とは「表現する」とは?について書かれていて、いつまでも言い訳するのはやめようと思えました。
運動も同じ
今の運動能力も子どものときからの積み重ねだったりします。でも、子どものとき「できなかったから」と今もやらない言い訳をするのはどうでしょう?
「自分の体を操作できない」というのは、ハンドルを握れずに暴走する車に乗っているようなもの。恐ろしくて生活するので精一杯になってしまいます。
難しいことをしようとしなくていいので、片足立ちだけでもやってみてください。50〜70代のバランス感覚と死亡率を調査し、10秒間片足立ちできない人は、10年以内の死亡リスクが2倍以上になると報告されています。
死亡率の差の明確な原因はわかっていませんが、バランス感覚の低下した被験者は、全体的に健康状態が悪く、冠動脈疾患、高血圧、糖尿病の症例が多かったそう。
40代以降は筋肉量が減りやすくなります。
とくに閉経後の女性は転倒→骨折→寝たきりになるリスクが高いので、片足立ちだけでもやってみてください。
立ったまま靴下を履くだけでもトレーニングになるのです。
ということで、note更新もがんばります!
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