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トードス・オス・サントス教会跡、南蛮船来航の波止場跡と長崎港など

アルメイダの記念碑とトードス・オス・サントス教会跡

トードスオスサントス教会は、長崎で最初に建った教会です。現在はお寺になっています。入り口手前の方に、ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑があります。思ったより大きい記念碑でした。

アルメイダは、ポルトガルの貿易商人で莫大な財産を築きましたが、改心してイエズス会修道士となり、全財産と生涯を日本の貧しい人や布教に捧げました。医師の免許も持っていたアルメイダは、捨てられた子供達を育てる孤児院をたて、日本で最初の西洋病院をつくり無料で奉仕しました。その後は各地を休む暇なく巡って宣教しました。

坂の街・・・ゼーゼーしながらあがると

春徳寺

お寺になっていますが教会時代の井戸が残っています。
(見学希望者は、前日までに要予約)
マニラ追放直前の高山右近もこの教会で数日間祈っていたそう。

これが当時から使っていた井戸。目が慣れると水が流れているのが見えました

井戸の横に大理石の板があるのですが(写真とらなかった)それも教会時代の物と思われているとのこと。

コレジヨや印刷所、そして有馬のセミナリヨもここへ避難し禁教令で破壊されるまでここにあったようです。

セミナリヨ・コレジヨ移転の年表
https://www.city.minamishimabara.lg.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=4734&sub_id=1&flid=9026

春徳寺 トードスオスサントス教会跡 前日までに要予約

https://mobile.twitter.com/shuntokuji


南蛮船来航の波止場跡と長崎港について

県庁坂通りにある南蛮船来航の波止場跡。この辺まで海だったんですね

右近が出航したのは長崎港か、福田かどっちなのか?

大村純忠が開港した長崎。貿易で繁栄した長崎ですが、純忠は敵に囲まれ常に攻撃され不安定でした。とくに佐賀の龍造寺は大敵で、長崎をよこせと言われる危険があり貿易を失えば大損害、かといって断れば勝てない戦になります。

そこで悩み抜いた純忠が出した案が、イエズス会に長崎と茂木を寄付することでした。純忠はヴァリニャーノに長崎と茂木を教会の所有とするように切に願いました。(ただし関税は大村に入る)また、口の津(有馬領)に南蛮船をとられる可能性があったので先手を打ったという見方もあるようです。

イエズス会は知行地を受けることは禁止されていて、ヴァリニャーノも簡単に決めることはできなかったため1年近くこの件を検討し受理しました。踏み切った一つの理由は、仏教徒の龍造寺が長崎と船の関税を所有すれば、大村のみならず九州の教会全体が壊滅する可能性があったからでした。そして教会側も絶え間ない戦に巻き込まれて、毎回命懸けで荷物や財産をあっちこっちにうつし、教会を焼かれ壊されては建てなおし、ということがずっと続いていたので安全な場所が必要でした。ちなみに何かあれば返還できる契約だったそうです。まあ結局、秀吉に長崎を奪われるのですが・・。

鍋冠山からみた現在の長崎港

鍋冠山からの景色も良かったですが行くまで軽い山登りとなって結構大変でした

おまけ フロイス通り

波止場跡から割と近くに、フロイスの名前がつけられたフロイス通りがあります。

この辺は他にも色々史跡があるのですが、時間切れと疲れでこれくらいしか行けませんでした。またゆっくり行きたい。




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