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小説「ドルチェ・ヴィータ」第8話(全11話)
これまでのお話
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第8話
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「祥穂さん? 祥穂さん……?」
「……あ、ごめん、ぼーっとしちゃってた」
「大丈夫ですか?」
平泉さんが心配そうに、山吹色の大きな瞳で私を見上げる。
「どうして?」
「だって、このところずっと、祥穂さん、ぼうっとしている時間が増えたから、なんだか心配なんですよ」
「秋だからかな」
私はお茶を濁して、台所の拭き掃除を再開した。心の曇りも一緒に拭き浄められればいい、自然と手に力が入る。平泉さんは私を見上げていたが、ソファーに飛び上がると丸くなった。私の視線は床に集中する。そして思考は、彼と別れた横浜の夜に収斂されていく。
その日の彼は、今までの人生の中でいちばん優しかった。お昼前に中華街の入口で待ち合わせして、焼き小籠包のお店に一緒に並んで、小籠包の中の熱い汁にやられながら笑い合って、パンダの帽子をかぶりながら笑って、それからぶらぶら歩いて海の近くの公園で船を眺めた。ベンチに座って、私達はいろいろなことを語り合った。私が前の会社に入った頃のこと、彼と同じチームに配属された時のこと。なぜだか二人の関係が始まる前の話で盛り上がった。
「そういえば最初、自己紹介の時、祥穂めちゃくちゃ緊張してたな」
「そりゃあそうよ、だって、入りたくて仕方がなかったチームに配属されたんだもん」
「俺のチームに、ってことだよな」
「まあ、そう言えばそうだけど」
「なに、その頃から俺のこと憧れだったわけ?」
「……おしえない」
私は頬が赤くなるのを見られまいと、そっぽを向いた。彼の気配が柔らかくなるのを感じた。肩を抱き寄せられた。久しぶりに感じる、彼の体温。馴染み深い、彼の体温。彼の匂い。少し、煙草の匂いが混ざった、甘い匂い。心のこわばりが溶けていくに従って、からだが柔らかくなっていく。私は彼のぬくもりの中で、目を閉じて、しばしたゆたった。
日が傾いてきたので、私達はみなとみらいに移動した。観覧車は、想像していたよりも大きかった。子供みたいにはしゃぐ私に半ばあきれながらも、それでも彼はずっと手を繋いでいてくれた。差し向かいではなく、隣同士に座って、私達は横浜の空を一緒に横切っていった。観覧車がてっぺんを過ぎたあたりから、私は急に寂しくなって、繋いだ彼の左手をぎゅっと握りしめた。彼はその手をほどくと、私の肩に回して抱き締めた。そして右手を伸ばすと、私の右手をぎゅっと握り返してくれた。私は胸がしめつけられて、なんだか泣きたい気持ちになって、彼の顔を見上げた。彼の目は優しかった。私のことを、心の底からいとおしんでいた。私はそのまなざしを心の宝箱にしまい、瞼を閉じた。夕暮れの蜂蜜色の光に満たされて、私達は唇を合わせた。懐かしい、かすかな煙草の味がした。
久しぶりに過ごす二人の夜は、なんだかくすぐったかった。肌を合わせているだけで、たくさんのことを語り合ったような、分かり合ったような気がした。薄い電灯の影になった彼を見上げる。懐かしい角度。私は目をつむり、彼をからだいっぱいで記憶しようと集中した。ひとつひとつのくちづけを、浸透させていく。生涯、忘れないように。生涯、覚えていられるように。夜明け、彼が眠っている間に、私は短い手紙を書いた。重ねた歳月を刻み込んだ、大好きな、大好きな目の縁の皺にくちづけをして、私は部屋を出て始発に乗った。
……気がつくと、また手が止まっていた。涙と、鼻水まで出てきた。私は袖でぐいっと涙を拭き、鼻水を啜り上げ、猛然と拭き掃除を再開する。すると、足元に柔らかい気配を感じた。見ると、平泉さんが私のふくらはぎに体をすり寄せている。
「平泉さん……」
「無理しちゃいけませんよ、祥穂さん。心はそんなに速く走れないんです。特に傷が深い時には、そんなに速く走ろうとしちゃいけません。ゆっくりうずくまって、傷を癒す時間も、長い命の間では必要なんですよ」
「……私、速く走ろうとしてた?」
「ちょっとだけ」
そう言って、頭を脛にこすりつけて、平泉さんは足の甲の上で丸くなった。
「……なんで、足の上に?」
「祥穂さんが、これ以上速く走ろうとしないように」
足の甲から平泉さんのぬくもりが広がる。私は布巾を置き、手の水気を拭き、しゃがみこんで平泉さんの背中を撫でる。平泉さんはちょっと私を見上げて、目をつむった。私は平泉さんを抱き上げる。平泉さんが喉を鳴らす音が、体に響く。
「……平泉さん、こないだ泊まりに行った日の話、聞いてくれる?」
私は思い切ってつぶやく。平泉さんはただ喉を鳴らし続けている。ああ、ようやくこれで本当に、彼とのことを終えることがきっと出来る。私は目を閉じて、蜂蜜色の光に満ちた観覧車を思い出す。さようなら、いとしいひとよ。ありがとう、いとしいひとよ。
(つづく)
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つづきのお話
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・第11話(最終話)はこちら