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小説「駒込珈琲物語」第10話(全18話)

 へーヴェ駒込での日々は、穏やかに過ぎていく。土曜日のたびに、マダムからはなんだかんだと理由をつけて、LINEが入る。いつも、差し入れとして野菜ジュースをマダムがくれるのは、私の食生活を心配されているからなんだろう。

 春の新年度になって、会社では異動があった。私は企画部のまま現状維持だったので、マダムからもらった野菜ジュースを飲みながら、人の入れ替わりをぼんやりと眺めていた。

「はじめまして。今日付けで企画部配属となりました、新居浜日菜太と申します」

 気がつくと、体の大きな男の子が隣の席から挨拶をしてくれている。私も頭を下げる。

「堀口栞です。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」

 そう言って、新居浜くんは几帳面に頭を下げる。そういえば、営業部にいた男の子がやってくるって聞いた気がする。きっと彼なのだろう。

「なにか分からないことがあれば、いつでも聞いてくださいね」
「ありがとうございます! ……あ」

 そう言うと、新居浜くんは私の机の上を見つめた。彼の視線の先をたどると、マダムからもらった野菜ジュースがあった。

「この野菜ジュースが、気になりますか?」
「はい。うちでも取り寄せているものなので」
「そうなんですね。私は、ご近所にお住まいの大家さんからいただいたんです。美味しいですよね、これ」
「はい。実家でもずっと飲んでいたものだったので、なんだか嬉しいです」

 そう言って、新居浜くんはニッと笑った。ほんのり日焼けした肌に、白い歯がいやみなく光る。なんだか、人懐っこい男の子だなあ。私は親近感を抱いた。

 夏になると、カフェ・ポート・ブルックリンのマスターが坂の上にある銭湯、殿上湯の存在を教えてくれた。

「そういえば、栞さん、殿上湯は行きましたか?」
「で……でんじょう、ゆ?」
「あ、まだ行ったことないですか? たぶん、マダムのマンションからだと、行きやすいんじゃないかと思うんですけど」
「銭湯なんですか?」
「そうそう。確か、聖学院の坂を上がってすぐじゃなかったかな」
「ああ、あの坂」

 私は、西中里公園近くのヘーヴェ駒込から、すぐそばの聖学院の脇にある二つの坂を思い出した。学校の間をすっと上る真っ直ぐの坂と、途中に大きな木があるくねくね曲がった坂。どちらも、上までのぼりきったことはなくて、この坂の上にはどんな世界が広がっているのだろう……と思っていた。

 殿上湯はTwitterもInstagramもやっているというので、さっそく検索してみる。Instagramではすごくお洒落な写真が出てきたので、びっくりした。朝湯カフェとかもやっているみたい。

 投稿を読み込んでいくと、今度の日曜の朝には「珈琲牛乳フェス」という催しが開かれるという。よし、行ってみようと心を決める。


 丘の上にある殿上湯は、昔ながらの佇まいの銭湯だった。番台でお金を払って女湯に入る。裸足で歩く木の床が心地よい。

 富士山の描かれた壁を背に、大きな湯船で手足を伸ばす。くはああああ、という声にならない声が洩れる。銭湯なんて、ほとんど来たことがなかった。天然の地下水を汲み上げて使っているという殿上湯のお湯は、とても柔らかい。そういえば、Instagramではこのお水を使ったクリームソーダの写真もアップされていた。今度は、クリームソーダも飲んでみたいな。



 お風呂上がりに、待合スペースにあるバーカウンターで珈琲を頼む。今日はMIDDLE GARDEN COFFEE STANDさんと、抽出人間さんが出店している。それぞれ特徴のある珈琲を準備されていたので、思い切って2種類頼んでしまった。飲み比べするのが楽しみだ。

 殿上湯の裏庭に行くと、サンドイッチや焼き菓子の屋台などもある。集まった人たちが皆、風呂上がりのリラックスした笑顔なのがとてもいい。

 裏庭にあるアパートの一室も開放されていたので、お邪魔してみることにした。



 6月の風が吹き抜けていく。心地良い。目をつむって、風を楽しむ。

 パッションフルーツの入った珈琲牛乳も、グレープフルーツとエルダーフラワーシロップの入ったアイスコーヒーも美味しく、私は畳に足を投げ出したまま、駒込の早い夏を謳歌した。

 秋になったある土曜日。会社で調味料のサンプルをもらった私は、マダムにLINEを送った。今日は、マダムからの連絡は珍しく来ていない。

「マダム、きょうはお出かけですか? うちの会社でサンプルの中華調味料をもらったので、お裾分けしたくって。いまどちらですか?」

「いま、カフェ・ポート・ブルックリンにします。よければいらしてください。ブランチをご馳走しますよ」

 マダムからの返信を見て、私は財布とスマホを小さなトートバッグに入れた。調味料の入った紙袋を持って、カフェ・ポート・ブルックリンに向かう。



 カフェ・ポート・ブルックリンに着くと、マダムは難しい顔をしながらクロッキーブックに向かっていた。すこし躊躇したものの、声をかける。

「マダム、おはようございます」

 マダムは顔を上げた。マゼンタピンクの唇がにっこりと三日月型になる。マダムが手で座席を示してくれたので、私もお辞儀をして座る。

 カフェ・ポート・ブルックリンのマスターが水の入ったグラスを持って来てくれた。

「朝は、ご注文をレジでお願いしますね」
「あ、そうでしたね」
「どうぞ、ごゆっくり」

 マスターは頭を下げ、にっこりと笑う。

「栞さん、どうぞお好きなものを頼んで」
「ありがとうございます、でも今朝はもう、朝ご飯食べちゃって」
「あら」

 マダムは目を丸くした。そうね、確かに。ずっと土曜の朝は私、遅く起きていたものね。マダムにも、ずいぶん心配かけてきちゃった。

「今朝は何を召し上がったの?」
「簡単なものですよ。おにぎりと、卵焼きと、お味噌汁と……」
「まあ、素敵ね」
「実はね、最近、お味噌汁にはまってて。今朝はオクラとミニトマトとベーコン、それにちょっぴりの牛乳と、粉チーズと黒胡椒でアクセントつけてみました」
「その組み合わせ、美味しそうね」
「でしょう? Twitterで知ったレシピを真似してみたんです」

 マダムの口元が緩んだ。よかった。難しい顔をされているから、ちょっと心配だった。

「だから、今朝は飲み物だけで大丈夫です。マダムとブルックリンさん来られるんだったら、海老とアボカドのサンドイッチ食べたかったな」
「何になさる?」
「いいんですよ、私もマダムに会いたかったので。それにマダム、お仕事中だし」

 立ち上がろうとするマダムを手で制して、私は小さな生成りのトートバッグを持ってレジに向かった。

 アイスカフェラテを注文して席に戻ると、マダムはまた難しい顔に戻っていた。柔らかそうな芯の鉛筆を持って、クロッキーブックと向き合っているマダムの姿を見ていると、背筋を正したくなった。

 マスターがアイスカフェラテを持ってきてくれた。マダムの深い思考を邪魔したくなくて、目配せをして無言で受け取る。

 しばらく、静かな時間が流れた。窓の外の本郷通りを行き交う車を見つめ、アイスカフェラテをストローでかき混ぜる。大きな氷のからからという音がした。

 アイスカフェラテに露が浮かんできた頃、思いきって声をかけてみた。

「マダム、考え事ですか?」
「そうね、考え事。珍しく、悩んじゃって」

 マダムは少し遠い目をした。

「新しい仕事のオファーが来たのだけど、いつになく悩んじゃってね」

 私は驚いた。マダムでも、そんなことがあるなんて。

「どうしてですか?」
「さあ……。その作品が、自分にとって非常に特別な作品だから、かしらね」

 私はマダムを見つめ、アイスカフェラテに視線を落とした。マダムはとても大きなものと向き合っている。そんなマダムに、自分がかけられる言葉はなにもないように感じた。無力だな、と思いながら大きなジャーに入ったアイスカフェラテの氷をかき混ぜる。私達はしばし、柔らかなヴェールのような沈黙に包まれた。

 マダムを深い思考からすこし離すことがてきたら、気分転換になるかもしれない。そう思いつき、話を切り替えてみる。

「初めて、マダムとお茶をしたのも、このブルックリンさんでしたよね」
「……そうだったわね。栞さん、西中里公園の前でうちのマンションを見上げてらしたのが気になって、それで声を掛けて」
「そうそう。あの時は、物件を探していたけれど、どこもNGだったんですよね。心折れかけて、さつき通りのセブンイレブンで買った卵サンド食べて、鳩にパン屑投げてました」

 そのときの心もとなさを思い出しながら、私は明るく笑った。そうだ、そうだった。あの時の私は、何をどうすればいいかわからずに、鳩にパン屑を投げていた。そんな時に、マダムと出会えた。マダムが、私を拾ってくれた。



 ふと思い浮かんだことがあり、口を開く。

「そういえば、マダムにずっと尋ねてみたかったことがあるんです」
「なにかしら」
「うちのマンション、『ヘーヴェ駒込』って名前ですよね」
「ええ」
「『ヘーヴェ』って、どういう意味なんですか?いくら調べてみても、インターネットではそれらしい言葉が見つからなくて」
「ああ」

 マダムのマゼンタピンクの唇が微笑みの形に刻み込まれた。

「『ヘーヴェ』はね、デンマーク語で『庭』って意味なの。この駒込には、六義園も、旧古河庭園もあるでしょう。そして、うちのマンションは西中里公園の前でしょう。それで『庭』を意味する、デンマーク語の『ヘーヴェ』を名付けたの」
「そうだったんですね。でも、どうしてデンマーク語?」
「それは、主人と出会って、初めて一緒に仕事をしたのがデンマークだったからよ」
「素敵! そういえば、今日はご主人は?」
「初台に、オケのリハに出かけたわ。今度の公演がもうすぐでね」

 マダムのご主人である澤松俊作さんは、オペラの公演で主にタクトを振る指揮者だ。マダムの7歳年下で、お二人で駅前の八百屋で果物を選んでいる様子を見ると、パリの朝市に迷い込んだような気持ちになる。私の憧れのご夫婦だ。

「庭は、人の暮らしと社会を優しく結んでいく場所だな、って昔から思っていてね」
「確かに、そうですね」
「そう。駒込は特に庭園や公園の多い街でしょう。だから、私達が作る家も、そんな優しい、そして風通しのいい場所であれたらいいなと願って」
「そっか。開かれた場所、ですね」
「そう、開かれた場所……」

 私の言葉を繰り返したマダムは目を見開いた。遠くを見つめ、そして目を閉じて自分の世界に潜り込む。無言のうちに、深い対話を重ねているようだ。

 私はマダムからそっと視線をはずし、アイスカフェラテにガムシロップを入れる。半分くらい飲んだところでガムシロップを加えるのが、私のアイスカフェラテの楽しみ方だ。



「栞さん、ありがとう」
「え?」

 気がつくと、マダムがすっきりとした表情で私を見つめている。

「あなたのおかげで、全てが繋がったわ」

 そして、マダムは立ち上がった。クロッキーブックと鉛筆を手早く鞄に入れる。ああ、仕事人の顔だ。私は眩しく思った。

 と、ここに来た目的を思い出す。いけない、忘れてた。

「あ、マダム、これも持って行ってくださいな」

 私はあわてて、調味料の入った紙袋を渡す。マダムは紙袋を受け取り、そして優しく私の手を握った。

「栞さんのおかげよ」
「そんな、私はなにも……」
「いいえ。大事なことを思い出させてくれた」

 マダムはぐるりとカフェ・ポート・ブルックリンの店内を見回した。

「さすが、旅の出港地ね。マスター、ありがとう」
「どういたしまして」

 マスターは、人のいい笑顔を浮かべ、軽く頭を下げた。鞄を肩にかけたマダムは、私を真っ直ぐに見つめた。

「栞さんも、どうぞ悔いのない、いい旅を」

 そして、マダムは大きな笑みを刻み、一歩、外へ踏み出した。





(つづく)













(つづく)










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