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小説「駒込珈琲物語」第1話(全18話)


 駒込の駅にはじめて降りた時に感じたのは「なんだか可愛らしい街だなあ」ということ。

 こじんまりとしたバスターミナルも、雰囲気のいいNew Daysも、なんとなく愛らしい。駅前の橋の下には線路が走っていて、親子連れやカメラを抱えた人々が身を乗り出すようにして、行き交う山手線を眺めている。その様子が微笑ましい。

 私、堀口栞が駒込で新しい家を探すようになったきっかけは、オフィスの移転だった。それまで千葉の船橋にあった本社が、業務拡大で池袋に移転することになったタイミングと、長年住んでいた部屋の更新のタイミングがちょうど重なったのだ。そこで心機一転重い腰を上げて、新しい街で新しい暮らしを始めてみようと思い立った。

 とはいえ、一から新しい暮らしを始めるのは、エネルギーが必要だ。基本的なところでめんどくさがりの私は、ベッドの中でごろごろしながら、「東京、引っ越すならこの街10選!」といったまとめサイトを見ながら、無為に過ごす週末をいくつか過ごしてしまった。なにより、これまで住んでいた亀戸の街が居心地がよかったので、「えー、引越なんてめんどくさいじゃん、このままでいようよー」という声が、いつも耳元で囁いていた。そうなのよ、土曜の夜にひとりで食べる亀戸の餃子はものすごく美味しい。断言する。

 でも、そんなめんどくさがりマインド以上に、新しい暮らしを始めたかった。新卒で勤め始めてから引っ越してきたこの部屋に住んで12年。ささやかな出会いと別れの歴史を刻み込んできたこの部屋、干支がひと回りするサイクルのあいだ私のあれやこれやを包み込んできたこの部屋から抜け出して、新しい環境に飛び込んで、新しい人生を始めたかったのだ。

 そこでひとまず、引越しをプロジェクト化することにした。仕事のように、工程を細分化して、自分の尻を叩いて管理していくのが、私のようなめんどくさがりには一番だ。プライベートだからといって後回しにしてしまうところが、よくないんだよなあ……と、頭をぼりぼり掻きながら、暫定的に決めた引越日程から逆算して、工程を洗い出す。うわあ、めんどくさい!と叫んで飛び上がりたくなる自分を抑えながら、缶ビールを飲んで、チーズ鱈をかじりながら、淡々とプロジェクト化していく。

 それと並行して、暮らす街の候補を真剣にリストアップし始めた。池袋から近くて、暮らしやすくて、そして、どこかいま住んでいる亀戸に似た雰囲気の街。そんなとこあるかなー、と苦笑しながら、あれこれ調査し続けていく。そのうちに、駒込という街が浮かび上がった。文京区・豊島区・北区の区境が接していて、六義園と旧古河庭園という二つの庭園があって、商店街も充実しているという駒込。商店街が充実しているというのが気になって、まずは街の見学に行ってみようと決めた。

 そして、初めて降り立った駒込駅。そう、なんとも可愛らしい街だなあ……という第一印象をまず持った。ちょっと薄曇りの9月の日曜日、まずは街を知ろうと、あえてスマホでの検索はせずに歩き始める。JRの駅を降りて左側の南口には六義園、右側の北口には旧古河庭園があるという、ざっくりとした前情報だけを頼りに、あとはインスピレーションに任せることに決める。

 ひとまずバスロータリーのある南口に降り立ったものの、右側の北口方面を眺めると大きくなだらかな坂が見えて、それが冒険心をくすぐった。どうせだったら冒険してみようと決めて、旧古河庭園方面に向かう。横断歩道の先に小さな神社を見つけたので、いいご縁が繋がりますように……と願いながら、五円玉を入れて、手を合わせた。

 知らない街を、きょろきょろしながら歩くのは楽しい。所々で不動産情報を眺めながら、街の中での相場を自分の中に落とし込む。駒込は3つの区が隣接しているから、どこに住むかによっても、違いがあるんだろうなあ……と漠然と考えながら、足を動かす。なだらかな坂は考え事にちょうどいい。

 しばらく足を動かし続けると、活気のあるスーパーに行き着いた。看板を見上げると「エネルギースーパーたじま」という名前と、少しマッチョなランプの魔人みたいなキャラクターが見えた。この街に住んだら、ここで買い物するようになるのかな、と立ち止まる。店頭に並ぶキウィフルーツやグレープフルーツは色鮮やかで、道ゆく人を幸せそうに眺めている。

 と、エネルギー溢れるスーパーたじまの少し先に、小径があることに気がつく。ん?と思って見上げると、そこには大きく「しもふり」と書かれている。真ん中には、不思議なキャラクターがにっこりと笑っている。よくよく眺めてから、「しもふり」の「し」を象ったキャラクターということに気がついて、思わず笑みが広がった。やっぱり、駒込の街って、どこか可愛らしい。

 不思議な「し」のキャラクターに導かれて、小径に足を向ける。行き交う人たちは賑やかで、活気に満ちている。なんだか、いろんなお店があるみたい。あ、本屋さん。それに焼き鳥屋さんもある。これなら、週末の晩酌も安心だな、とほくそ笑む。その少し先には、ガラス張りのおしゃれなカフェもあって、商店街との意外な組み合わせに心惹かれた。買い物帰りと見られるお客さんで混み合っていたので断念したけど、この街に住むようになったら、きっと足しげく通うことになるんだろうな、と漠然とした予感を抱く。

 八百屋さん、魚屋さん、肉屋さん、花屋さん、パン屋さん。生活を優しく支えてくれそうなお店が揃っている。ひらひらと泳ぐたくさんの赤い金魚達がいるお店では、職人肌のお父さんが金物や食器を売っていて、その佇まいが素敵だなあ……と、思わず見惚れた。


 帰り道、商店街の入り口近くの、さっき見かけたガラス張りのおしゃれなカフェを覗いてみた。さっきよりは空いていて、なんとか座れそうだったので、思いきって扉を開ける。少し甘いもので栄養補給したくて、ブレンドとピスタチオのクッキーを頼む。

 手帳を開き、街の印象や気付きを手帳に記す。そして周りを見回して、目を閉じて深呼吸する。

──うん、私、この街を好きになっていきそう。

 自分の中に生まれた確かな予感を感じる。ぱっちりと目を開けて、暮らしに根ざしたカフェの中をぐるりと眺める。そして、「しもふり」の商店街を思い出す。ひらひらと優雅に泳ぐ赤い金魚達。駄々をこねる子供をあやす若い夫婦、立ち話に興じるご婦人達、買い物袋を手に提げて寄り添い歩く老夫婦、音楽を聴きながら自転車を押す青年……。誰もがみんな等しく、この街の優しい空気の中で、暮らしを愛おしんでいる様が、ふうわりと心に染み込んだ。

 そうだね。やっぱり、私、この街を好きになっていきそう。

 私はにっこりと笑い、ブレンドをひとくち啜る。この街での、はじめのひとくちだ。


 ぽってりとした口当たりの水色のカップは唇に柔らかく馴染み、丁寧な焙煎の珈琲を穏やかに引き立てる。ああ、素敵なお店だなあ、と目を閉じる。そして、鼻腔をくすぐる珈琲の香りを愉しむ。未来に広がる新しい暮らしの香りを、胸いっぱいに吸い込んだ気持ちになって、微笑む。私の新しい暮らしの香りって、珈琲の香りだったのね。






(つづく)






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