小説「駒込珈琲物語」第18話(最終話)
駒込の駅にはじめて降りた時に感じたのは、「なんだか、可愛らしい街だなあ」という第一印象。こじんまりとしたバスターミナルも、雰囲気のいいNew Daysも、なんとなく愛らしい。駅前の橋の下には線路が走っていて、休日の午後は、親子連れやカメラを抱えた人々が身を乗り出すようにして、行き交う山手線を眺めている。その様子が微笑ましい。
駒込に暮らすようになって四年が過ぎようとする今でも、「可愛らしい街だなあ」という印象は変わらない。むしろ、ますます街に対して感じる可愛らしさは深まっている。
そんなことを、朝起き抜けの頭で考える。ベッドで伸びをして、時計を見る。朝の五時半か。うん、いつもどおり起きられてよかった。隣に眠る夫を起こさないように、そっとベッドを抜け出る。そういえば、昨夜は遅くまで新製品の打ち合わせ会議だと言ってたっけ。おつかれさま。
やかんに水を入れ、ガスの火を付ける。コップに水を入れて、ゆっくり飲む。顔を洗い、化粧水と乳液をぱたぱたつける。朝ノートを取り出して、今日の調子をチェックする。夫が去年の結婚記念日にくれたノートカバーも、随分使い込んだなと思う。ボールペンは、いつも替芯を入れてお気に入りのものを使い続けている。
朝ノートを書き終わると、昨夜のうちに仕込んでおいた土鍋に火をつける。土鍋でごはんを炊いた方が楽で美味しいと、マダムに教えてもらってから、土鍋ごはんが私の習慣になった。冷めてもつやつやとしていて、炊飯器で炊いたごはんよりも、確かに美味しい。オクラと茗荷をざくざく切って、お味噌汁も作る。一日の栄養補給にと、卵も二人分割り入れる。エネルギースーパーたじまで買った、きゅうりの古漬けも小皿に入れる。
「おはよう、栞ちゃん」
「おはよう、日菜太くん」
そうこうしてるうちに、夫が目を覚まして起きてきた。
「今日も店舗入り?」
「うん、朝イチで仕入れ状況をチェックしてくる予定よ」
「栞ちゃん、自分で職場を駒込に呼び込んじゃうのが、何度考えてもすごいよなあ」
「それ、かなり時間が経っても、自分が一番びっくりしてる」
そして、夫──日菜太くんと笑い合う。
夫をまだ、「新居浜くん」と名字で呼んでいた頃、〈こまごめ楽座〉を手伝ってもらったことがあった。その日がきっかけとなって、〈こまごめ楽座〉の舞台となった空き店舗は、うちの会社のアンテナショップとなり、日菜太くんと私は家族となった。あの日がすべてのきっかけだったと、懐かしく振り返る。
結婚が決まったと、マンションの大家さんである澤松さんご夫妻に、二人で報告に行ったところ、とても喜んでくださった。そして、3階の2LDKの物件が来月には空く予定なので、もしよければそちらに引っ越さないか、とお声がけくださった。慣れ親しんだへーヴェ駒込から離れなければならないかしら……と悩んでいただけに、そのお誘いは大変嬉しく、有り難かった。日菜太くんと相談して、引っ越しの予定を早めて、私達は家族になった。扉の色は、スカイブルーからサーモンピンクに変わった。
今は、駒込のアンテナショップの責任者をつとめる一方、週に2回は本社に行って企画開発会議で現場の声を伝えている。夫も同じ部署だけど、最近の仕事はWebディレクションが中心らしい。晴美さんとも、店舗の整備や改修など、なんだかんだ理由をつけて頻繁に会っている。〈こまごめ楽座〉は、今も場所を変えて、毎回盛況のうちに続いている。
ランチョンマットを敷き、朝ごはんを支度する。ついでに、お昼のおにぎりも握ってしまおう。
「今度の休み、旧古河庭園に行かない?」
「いいね、秋薔薇も見頃だものね」
「一緒に紅葉も楽しめるらしいよ」
「帰りには、珈琲飲みましょうか」
「そうしよう。ゴメスにも会えるかな」
日菜太くんは、にっこりと笑う。ふと、〈こまごめ楽座〉の夜に、まっすぐに想いを伝えてくれた時の笑顔が重なった。大きな笑顔、懐かしい笑顔。
「どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
私は味噌汁の湯気に顔を埋める。茗荷の香りが鼻をくすぐる。
「今朝は、俺が珈琲淹れるね」
「ありがとう」
「今日の豆の気分は?」
「うーん……ミドルガーデンさんの、マンデリンかな」
「了解」
そして、私達は微笑み合う。今日も、明日も、その次の日も。
駒込の朝は、まだ始まったばかりだ。
(おわり)
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