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小説「一人称のゆくえ」 ─弦月湯シリーズ─ 第2話(全4話)



これまでのお話


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第2話


 暦ちゃんが大学2年生になった秋に、おじいちゃんは亡くなりました。それからまもなく、後を追うようにおばあちゃんも亡くなりました。

 葬儀で久しぶりに、良輔おじさんと会いました。喪主は、良輔おじさんがつとめました。聡恵おばさんはどちらの葬儀にも来ませんでした。おばあちゃんの葬儀が終わってから、暦ちゃんは良輔おじさんと長いこと話し合っていました。

 雨の夕方、番台で本を読んでいると、泣き腫らした目の暦ちゃんがやってきました。

「おねえちゃん、自分がここに……弦月湯に居続けたら、迷惑かな」

 涙で滲む目の奥に、強い光がありました。わたしは首を振りました。

「そんなこと、ないわ。迷惑だなんてこと、絶対にないわ」

 暦ちゃんの目から、涙が溢れました。良輔おじさんは、静かに帰っていきました。良輔おじさんが、ずいぶん歳下の女性と再婚して、赤ちゃんも生まれたと聞いたのは、それからしばらくしてからのことでした。暦ちゃんも知らない間に、聡恵おばさんとは離婚していたそうです。

 北三日月町の駅前に、スペイン料理の「アルコイリス」がオープンしたのは、次の春になってから。すっかり塞ぎがちになった暦ちゃんを誘って、夕飯を食べに行きました。

「わあ……」

 扉を開けた途端、スペインの乾いた熱い風を感じるような気がしました。店内の、色彩豊かだったこと。小さな調度品までスペインで仕入れてきたことがすぐに分かります。

 暦ちゃんも久しぶりに嬉しそうな様子で、店内を見回しています。ふたりではしゃぎながらメニューを選んで、デカンタのワインも頼みました。

「おねえちゃんと外で一緒にご飯食べるって、久しぶりだね」
「ほんとね。このところは暦ちゃんも忙しかったから、ゆっくり話す時間も取れなかったものね」

 わたしは、グラスに注がれた赤ワインで唇を湿らせながら、笑みを浮かべました。

「住み込みのみんなのご飯、これまで通り、おねえちゃんと日替わりの担当で大丈夫だからね」
「ありがとう。でも、課題とかで忙しいんじゃない?」
「それはそれだよ。あと新年度になったら、新しいバイト探さないとなあ……」

 暦ちゃんは、大きく伸びをしました。わたしは店内を見回しながら、何の気なしにつぶやきました。

「このお店、いいんじゃないかしら」
「え?」
「とても雰囲気いいように思って。こんなお店だったら、暦ちゃんものびのび働けるんじゃないかしら」

 そう言いながら、マッシュルームの傘に刻んだ生ハムを詰めたタパスに刺さった楊枝に、指を伸ばしました。

「このお店かあ……」

 暦ちゃんは、あらためて店内をぐるりと見回します。

「なにかお探しですか」

 凛とした、涼やかな声がしました。髪の毛をきゅっとひとつ結びにした女性が、にこやかに立っています。

「あ、いえ……すみません。素敵なお店だなあと見回しちゃって」
「嬉しいお言葉、ありがとうございます。スペインの雰囲気の中で、お客様にお寛ぎいただけるよう、食材だけでなく食器や、こちらのタイルなども現地から取り寄せたんですよ」
「そうなんですね」
「申し遅れました、私、店長の山口と申します。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」

 店長の山口さんは、お辞儀をしました。わたしと暦ちゃんも、頭を下げます。

「こちら、オープン記念でお客様皆様にお配りしているんです。スペインで作ってきた楊枝入れです。よろしければお持ちください」
「ありがとうございます」

 黄色いニワトリ型の楊枝入れは、鮮やかな色彩にいろどられています。スペインが手のひらの中にやってきました。わたしは嬉しくなって、黄色いニワトリをしげしげと見つめます。

 テーブルを後にする山口さんの背中を、暦ちゃんはずっと見つめていました。

 「アルコイリス」で働くことが決まったと暦ちゃんが告げたのは、それから2週間も経たない頃でした。

「そう、よかったわね」
「うん。それで……改めて、おねえちゃんに話があるんだ」

 暦ちゃんが姿勢を正しました。わたしは、暦ちゃんを見つめました。

「……ずっと言えなかったけれど、自分のセクシャリティについて、子供の頃から悩んできたんだ。自分は、女性の体をもって生まれてきたけれど、女性ではないと感じながら生きてきたんだ。かといって、男性という訳でもない。精神的には、男性寄りなのかもしれないけれど。でも、女性でも男性でもない、どちらの性でもない存在として、これからの人生を生きていきたいと願うんだ」

 暦ちゃんの告白を、わたしは静かな心で聞きました。どこかで、これまでの答え合わせをするような感覚でした。不思議と、肩の荷を下ろせたような感覚も覚えました。

「よかった」

 心からの安堵の言葉が、唇から洩れました。

「暦ちゃんの心が、快く、心地よくいられる方向に、人生の舵を取ることを決めたのね」
「驚かないの?」

 わたしは、首を振りました。

「驚かないわ。子供の頃からずっと、暦ちゃんは無理をして、我慢を重ねているように見えていたから。それを傍で見ているのは、わたしもつらかったから。暦ちゃんの心が自由になっていくのが、なにより嬉しい」
「……おねえちゃん、ありがとう」

 暦ちゃんはまるで子供の頃のような笑顔になりました。

 それからいつの間にか、暦ちゃんはわたしを「ねーちゃん」と呼ぶようになり、わたしもまた「暦」と呼ぶようになりました。でも、心の中ではずっと、「暦ちゃん」と呼び続けています。わたしの中では、生まれたてのふにゃふにゃ泣いていた暦ちゃんが、ずっと暦ちゃんの原点なのですから。

 大学を卒業した暦ちゃんは、そのまましばらくアルコイリスで働きながら、自分のセクシャリティを受け入れてくれる企業を探し続けていました。

「不思議なんだけど、アルコイリスではすごくスムーズに受け入れてもらえたんだよね」

 暦ちゃんは、ことあるごとにつぶやいていました。初めてアルコイリスに行った時に、黄色いニワトリの楊枝入れをくださった店長の山口さんが、面接を担当してくださったそうです。何の偏見もなく、あるがままの暦ちゃんをまるごと受け入れてくださった山口さんに、わたしは感謝と尊敬の念を深く抱きました。

 デザイン事務所への就職が決まった時、暦ちゃんは「壱子さんにお礼がしたいから」と、マグカップを作って渡したそうです。それだけ、山口さんという方は暦ちゃんの中で大きな存在になっていたのだと、改めて感じました。

 ただ、就職先では人間関係などでさまざまな軋轢があったようです。数ヶ月後、暦ちゃんはパニック障害と診断されました。数週間、休職もしました。そのあいだ、暦ちゃんは縁側に座って、裏庭の柿の木をじっと眺めていました。

 暦ちゃんが個人で働くことを視野に入れ始めたのは、その休職がきっかけとなったようです。組織の中で働くというのは、実力云々ではなく適性が求められることです。向いている人は働き続ければいいし、そうでない人は違う環境を作っていけばいい。わたしも、ずっとひとりで仕事を進めてきたので、暦ちゃんの選択に関して特段思うことはありません。

「いまは、スキルと人脈を培う修行の時期だと考えているよ。あと1年半は修行する」

 暦ちゃんはそう笑っていました。その言葉どおり、それから1年半ほどしてからフリーで働くようになりました。最初は事務所にいた時の人脈をたどっていたそうですが、いまはクラウドサービスなども活用して、新規の顧客も広げているそうです。また、個人でのWEBサイトやSNSなどで世の中への発信も続けているそうです。

 ある日、ふと見ると暦ちゃんの顔が曇っています。

「アルコイリスがどうもやばいらしいんだ」
「やばいって?」
「サービスの質が低下しているらしい。社長が代替わりしてから、いろんな方針が変わったらしくて、サイトを見てみたら自分が働いていた頃のメニューとは随分変わってしまったのもわかったよ。SNSを見ても、お客さんの反応は芳しくない」
「あら……」

 咄嗟に浮かんだのが、暦ちゃんが働いていた北三日月町のアルコイリス、その店長の山口さんのことでした。いまも、黄色いニワトリの楊枝入れは大事にしています。

「山口さん、心配ね」

 暦ちゃんは、無言で頷きました。眉根をきゅっと寄せています。

 とはいえ、弦月湯の経営が順調かというと、決してそんなことはありません。自分なりに様々に取り組んでいますが、お客様の数はじりじりと減り続けています。入浴剤の種類を変えればいいのかしら、など細かなことに取り組んでいますが、成果ははかばかしくありません。

 数年前からは、シャボンフロンティアさんとおっしゃる企業が、弦月湯を引き取りたいと強く出られるようになってきました。一度、お招きをいただいてシャボンフロンティアさんの経営するスーパー銭湯に行ってみたこともあります。けれど、キラキラしたお風呂の雰囲気に気持ちが負けてしまい、帰ってからはしばらく横になって過ごしました。

 もしも、シャボンフロンティアさんに弦月湯をお譲りしたら、弦月湯もあんなキラキラしたお風呂になってしまうのかしら。そう考えると、それだけで悲しくなりました。

 そうしている間に、ツァイトウイルスの流行が始まりました。あっという間に世界中に広がってしまい、日本でも政府が緊急事態宣言を出しました。北三日月町も、すっかり人通りがなくなってしまいました。

 東京都の条例では、銭湯は地域の皆様方の日常生活において、保健衛生上必要な施設という位置づけなので、営業を続けています。短縮営業にしましたが、馴染みの皆様は朝早くにいらしてくださったり、午後イチでいらしてくださったり、密集状態が生じないように工夫しながら弦月湯での日常を続けてくださっています。

 ただ、ちょうどツァイトウイルスが流行り始めたタイミングで住み込みの学生さんたちがみんな卒業してしまったので、わたしと暦ちゃんのふたりで、この広い弦月湯の管理をしなくてはならなくなってしまいました。そうした状況を見破られてなのか、シャボンフロンティアさんからの揺さぶりも強まります。

 住み込み募集の貼り紙はしたものの、常連さんしかおいでにならない今の状況では、望み薄です。どうしたものか……。悩みながら、スペイン語翻訳の仕事の方で、下訳を手掛けた作品の仕上がりをチェックしようと本を開きました。ガルシア・ロルカの『血の婚礼』の新訳版を出すことになったので、そのお手伝いをしたのです。

 硝子戸が開きました。見慣れない女性客の方が、おひとりでいらっしゃいました。タオルをお貸しして、再び『血の婚礼』の仕上がりをチェックします。なるほどなあと思う表現に組み替えられているのを見ると、膝をポンと打ちたくなります。

 いつかわたしも、自分の物語を書けるかしら。ふっとそんな思いが湧き上がりました。様々な文章を翻訳して、様々な方々の思考を頭と体を通過させていると、時々自分が空っぽになったような気がします。それは決して不快な感覚ではなく、むしろ自分が一本の管になるようでとても心地よい感覚です。ただいつか、自分の物語を書いてみたい。その思いは、「ナルニア国物語」を読んでいた子供の頃から、時折ふっと湧き上がってきます。その度に、その想いをいなして、いさめて、おさめてきました。

「あの、すみません……」

 先程の女性客の方です。わたしは、目を上げました。

「いまそこで、こちらの住み込み募集という張り紙を見つけたのですが……」

 わたしは本を閉じました。女性客の方を見つめます。何処かでお会いした気がする。でも、マスクをされているからわからないのです。

「お名前は」
「山口壱子です」

 ──山口、壱子さん。もしかしたら、暦ちゃんが働いていたアルコイリスの店長でいらした、あの山口さんなのかしら。わたしは動悸が速くなるのを感じました。あの山口さんだとしたら、どうして。どうして、うちの住み込み募集に。

 様々な疑問文が浮かんできましたが、わたしはそれをぐっとおさめました。事情を詮索するのは、わたしの役目ではない。目の前の山口さんは、住み込みのお仕事に応募しようとしてくださっている。わたしにできることは、それに応えることだけです。

 わたしは番台の下から、青いファイルを出しました。おじいちゃんが大事に使ってきたファイルです。そして、山口さんを手招きしました。ファイルの中から、住み込みのお仕事について書かれた書類を渡しました。なんとなく、山口さんを見つめるのが気恥ずかしくて、ファイルに目を落としたまま、口を開きました。

「基本的にお手伝いをお願いしたいのは、夜の8時半から10時の間。それと、朝湯を開ける前の7時から7時20分までと、夕方の営業を始める前の昼の1時半から2時半までです。それと、週に2度、3時から8時までの間で2時間ほど番台にいらしていただければ。いま時短営業中で、うちの営業が8時までなのですが、その後に男湯と女湯の清掃に入ります。朝ご飯は6時、昼ご飯は12時。夜ご飯は作っておいたものを適宜食べていくという感じです。部屋は、ここの離れの2階、7号室が空いてるので、自由に使って下さい。6畳の和室です。布団もあるので、よければ使ってください」
「あの……?」

 山口さんが発しようとしている疑問文を感じながらも、言葉を続けます。

「いつから来られますか? 今日? 明日? 来週?」
「そしたら……明日から、お願いします」
「わかりました」

 ちょっと、せっかちだったかもしれない。落ち着かなければと反省しながら、わたしは山口さんを見つめます。マスクに隠れた、お風呂上がりの上気した頬。マスクが隠しきれない、強い意思を持った眼差し。ああ、やっぱりこの人が、黄色いニワトリの楊枝入れをくださった、山口壱子さんだ。わたしは、心の中で小さく頷きました。

「私はここの三代目で、若月いずみと申します。ここの離れの1階で、従弟との2人暮らしをしています。3月までは住み込みの方が3人ほどおいででしたが、ちょうど皆さん引越しや、大学の卒業などで、ここから去ってしまいました。なので、山口さんにこうしておっしゃっていただけて、とても有難いです。今はウイルスの影響を受けていますが、常連さんはおいでになるので、朝の7時半から9時までの朝湯と、夕方の3時から8時までの時短営業に切り替えて、銭湯を開けています」
「そうなのですね」
「お手伝いをお願いするお時間以外は、ご自由にしていただいて結構です。うちは現物支給のみですので、ほかのお仕事をしていただいても構いません。お風呂は、うちのお風呂を自由に使ってください」
「ありがとうございます」
「明日は、何時においでになりますか」
「そしたら、昼前の11時くらいには」
「わかりました。昼食も用意しておきます。アレルギーや嫌いな食材はありますか」
「いえ、特に」
「わかりました。では、また明日」

 山口さんがお帰りになって、わたしは息を深く吐きました。山口さんに、何があったかはわからない。だから、わたしにできることを、いつも通りにやっていこう。それから……暦ちゃんにも伝えなくちゃ。






(つづく)




つづきのお話


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