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小説「駒込珈琲物語」第8話(全18話)



 マダムからの新着メッセージだ。私の胸は、どきんと鳴った。

 珈琲をひと口飲んで、気持ちを落ち着ける。目を瞑って、息を深く吐く。そして、人差し指でLINEのアイコンをタップする。マダムのアイコンは、赤い大輪の薔薇。彼女らしい。メッセージを開けると、そこにはなにかWebサイトのリンク先が貼ってある。他には何も書いていない。リンクをよくよく読んでみると、どうやらYouTubeらしい。

 動画を再生すれば、なにか答えを得られるかもしれない。私は、バッグの中からワイヤレスのイヤホンを探し出す。Bluetoothで接続するのももどかしく、その動画を再生する。


 再生されるのは白黒の映像だ。ドレスを着た品のいい穏やかな女性が、楽器を抱えた人たちの間にすっくと立っている。この女性が、ニルソンだろうか。静かに微笑む彼女は、まるで菩薩のように美しい。

 やがて、彼女は静かに歌いだす。クラシック音楽なんて、そんなに聴いたことないのに、私にわかるかしら……と尻込みしながら聴き始める。けれど、曲が進むにつれて、音楽のダイナミックなうねりと、オーケストラの波を越えていく水晶のようにクリアで、強く輝く声の美しい対比に、私の心は奪われた。

 聴き終わってからしばらくの間、私は惚けたように宙を見つめていた。細かい事はわからないけれど、私は今、とても貴重な時間を体験した……という思いで一杯だった。お店で流れているBGMすら、気にならなかった。

 マダムに何と返していいかわからず、ただひと言、「聴きました。ありがとうございます。」とだけ、送った。すぐに既読がついた。早いな……と思っていると、次の瞬間、マダムからのメッセージが届いた。


「トゥーランドットではないけれど、私の好きなニルソンの歌唱を送りました。ヴァーグナーこと、ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》という作品の最後でイゾルデという女性が歌う"Liebestod" 、〈愛の死〉として知られている曲です」


 今のは、トゥーランドットではなかったのか。そして、キーン先生の本に出て来たヴァーグナーは、ワーグナーともいうのか。知らないことばかりだ。《トリスタンとイゾルデ》って、いったいどんな話なんだろう。そして〈愛の死〉というタイトルは、いったいどういう内容を示しているんだろう……。わからないことだらけだったが、マダムが書いてくれたアルファベットの”Liebestod “という綴りは、とても尊く、特別なものに感じられた。

 そんなことを考えていると、また、マダムからのメッセージが届いた。今度もYouTubeのリンクのようだ。それと共に「今度こそ、《トゥーランドット》のトゥーランドット姫のアリアを送ります。さっきと同じ、ニルソンが歌っています」とも添えてある。

 私は胸躍らせながら、リンクを開く。広告の再生をもどかしく飛ばして、映像が始まるのを待つ。始まって、私はびっくりした。



 これが、さっきと同じ人だというのか。太く、濃く、目尻が強く跳ね上げられたアイライン。豪奢な衣装は、昔の紅白に出ていた小林さっちゃんを思い起こさせる。そして、声がとても、とても強い。そして、怖い。この人は、どうしてこんなに怒っているのだろう……と恐れの気持ちが湧いてくるぐらい、強い怒りを滲ませている。

 「トゥーランドット姫」と言うからには、身分の高い姫なのだろうけれど、私が知るお姫様たちとは全く違う。シンデレラや白雪姫、あとディズニーの『美女と野獣』のベルなんかは、とても愛らしくて、お城で王子様と腕を組んで踊るのがとても似合う人たちだったのに、このお姫様はそうじゃない。うっかり踊りに誘おうものなら、バチンと手を払い、そのまま王子様の喉元に剣の切っ先を当ててしまいそうで……。そうだ、殺気に満ちている。なんでお姫様が、こんなに強い殺気を身にまとう必要があるんだろう。私は混乱した。

 音楽は進み、トゥーランドット姫は、何かを高らかに宣言する。すると、それまで黙っていた、傍にいた男性が急に歌いだしたので、私はびっくりした。男性は、同じメロディで、何かを強く言い返す。音は少し、高くなっているみたいだ。すると、男性に対して、トゥーランドット姫も、更に音を高めて反論する。最後は、同じメロディで、お互いに何かを強く主張し合って、二人は歌い終わった。そのままオーケストラの音楽は流れ、続いていく。これからどうなるのだろうか……と画面に目をこらすと、何かが始まろうとする気配を感じたところで、映像は終わってしまった。

 私は、茫然とした。さっきの静かな、あの菩薩のような美しい女性が、こんなに怖いお姫様になってしまうなんて。もしも、最初にトゥーランドット姫から見ていたら、私の中でのニルソンのイメージは、エキゾチックな怖い女性で固定化されていただろう。そうではなく、最初に、静かな菩薩のようなあの微笑みを見ていたから、余計に底の全く見えない深さを、私はニルソンという女性に感じた。人間は、こんなに仏のように穏やかにもなることも出来れば、こんなに激しい怒りを表出することも出来るのか。鳥肌が、ぞわぞわっと浮かび上がるのを感じた。

 私は自分の中に渦巻く激しい情動を、なんと言葉に翻訳していいかわからず、ただ目を瞑った。マダムは、自分の世界の一端を、垣間見せてくれただけにすぎない。まずは聴いてみなさい、ということか……。

 私は唸りながら、少し冷えた珈琲を啜った。先程より味の輪郭が、くっきりした気がした。








(つづく)













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