小説「一人称のゆくえ」 ─弦月湯シリーズ─ 第3話(全4話)
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第3話
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「北三日月町のアルコイリス、閉店したんだ」
スマートフォンから顔を上げずに、暦ちゃんはつぶやきます。
山口さんが弦月湯に住み込みで働くことになったと伝えたとき、暦ちゃんは言葉を失いました。そしてごはんも食べずに、スマートフォンであれこれ調べ物をはじめました。その夜はずっと無言で、裏庭の柿の木を見つめ続けていました。
次の朝、目が覚めると、暦ちゃんは朝ごはんの支度を整えていました。炊きたてのごはんに、あじの開きに、温泉卵に、豆腐とわかめのお味噌汁。お漬物も大皿に載っています。普段はごはんと卵入りのお味噌汁と納豆ぐらいなのに、今日はあまりにも「正しい朝ごはん」が揃いすぎているように感じます。暦ちゃん、眠れなかったのかしら。なんとなくそんな気がしました。
「ねーちゃん、おはよう。今日は、自分が朝ごはん準備しちゃったよ」
「ありがとう。顔洗ってくるから、そしたらいただきましょう」
「うん」
朝の光の中、暦ちゃんと向き合います。暦ちゃんは無言で、お味噌汁を啜っています。わたしも何も言わず、あじの開きの身をほぐします。
「壱子さんが、ここに落ち着くまで、自分は顔を出さずにいるね」
暦ちゃんがぽつりとつぶやきました。
「その方が、壱子さんものびのびできると思うから。落ち着いたら、壱子さんに自分からもご挨拶するね」
「わかったわ」
わたしは頷き、ほぐしたあじの身を口に運びます。
「あと、もしよければ、自分がここに暮らしていること、自分がねーちゃんのいとこだということ、しばらくは壱子さんに黙っていてもらえたら嬉しい」
「……暦が、それでよければ」
「うん」
暦ちゃんは頷き、にっこり笑いました。
それなのに、ああ。2週間ほどしたある日、わたしは壱子さんのことを以前から知っていたと打ち明けてしまったのです。壱子さんは狼狽し、嗚咽してしまいました。
「そろそろ時間なので、番台に入りますね。たぶん今日はお客さん少ないと思うので、壱子さん、今夜はお休みで。ゆっくり過ごしてください。また明日の朝、よろしくお願いします」
そう言い置いて、壱子さんをひとりにしたものの、わたしは後悔していました。やっぱり、暦ちゃんの言う通り、もうしばらく壱子さんをそっとしておいて差し上げればよかった。悔やんでも、口から発した言葉を取り返す訳にはいきません。
番台に行こうとしていましたが、わたしの足は止まります。暦ちゃんに、伝えなくちゃ。踵を返して、仕事中の暦ちゃんの部屋に向かいます。
「ねーちゃん、そしたら今夜は壱子さんの歓迎会にしよう」
話をひととおり聞いた暦ちゃんは、そう言いました。
「自分もまだご挨拶できていなかったし、いい機会だよ。住み込みさんが減っちゃったから最近使ってなかったけど、もうひとつの大きい台所でごはん炊いておくから、あとで一緒におにぎりつくろう。ねーちゃんが番台に詰めてるあいだに、そっちでおかずや豚汁作っておくから」
「暦……」
「いつかはわかることだったんだから。それが今日、いまこの瞬間、来ただけのことだよ。だから、大丈夫」
そう言って、暦ちゃんはにっこりと笑いました。わたしも小さく頷きました。ありがとう、暦ちゃん。
歓迎会の食卓は暦ちゃんに任せることにしました。きっと暦ちゃんなら、壱子さんの心を優しく包んでくれるでしょう。わたしは番台でひとり、大きなおにぎりをかじりました。
夜になり、人気のない番台でわたしは考え込んでいました。なるべく心のうちから追い出していたのですが、じつはシャボンフロンティアさんとのオンラインミーティングが明日の午後に迫っています。ツァイトウイルス禍の中、ご先方はますます強気に出られるようになってきました。わたしはため息をつきます。
番台から家族用の台所に場所を移して、わたしはパソコンに向き合います。下手の考え休むに似たりと言いますが、下手であろうとなんであろうと、考えなければならない時はあるのです。けれども、ああ、わたしには経営の才覚はないのでしょう。なにもいいアイデアが浮かびません。わたしは泣きたい気持ちになりながら、静かに光るパソコンの画面を見つめます。
と、台所の硝子戸が開きました。
「あら」
壱子さんです。なんとはなしに気恥ずかしさを覚えながらも、平静を装います。
「遅くまでお仕事ですか」
「ええ……ちょっと。お水飲みますか?」
「あ、はい」
わたしは立ち上がって、流しに置いてあった壱子さんのマグカップを拭いて、水を汲みます。そういえば、このマグカップを見て、暦ちゃんは息を呑んでいました。もしかしたら、暦ちゃんの作ったマグカップなのかもしれません。わたしは微笑ましく思いました。
「どうぞ」
「ありがとうございます。あと……お夕飯もありがとうございました」
「お口に合いましたか」
「はい……! ありがとうございます」
わたしは安堵しました。壱子さんがお夕飯を召し上がってくださって、よかった。暦ちゃん、ありがとう。
「……まさか、暦くんがいずみさんのいとこさんだとは思いもよりませんでした」
「言い出せなくて、ごめんなさいね」
「いえ……。こちらこそ、あんなひどい状態だったのに受け入れてくださって、本当にありがとうございます」
「とんでもない。こちらこそ、いつもありがとうございます」
会話が途切れ、夜の静寂がしんと訪れました。ふと、明日のミーティングのことを壱子さんに相談してみるのはどうかしら……という考えが浮かびました。弦月湯の内情を打ち明けるのは勇気のいることです。けれど、壱子さんになら打ち明けてもいいと思えました。
「……壱子さん、お願いがあるのですが、いいでしょうか」
「私でお役に立てることでしたら」
「ありがとうございます。……もしよろしければ明日の午後、オンラインミーティングにご同席いただけないでしょうか」
「え?」
壱子さんが大きく目を見開きました。その瞬間、壱子さんの中でなにかカチリとスイッチが入ったような感覚を覚えました。
「オンラインミーティングですね。お相手は?」
「……弦月湯を買い取りたいとおっしゃる企業さんです」
「え……!?」
「すぐに、という訳ではないのですが……。ただ、以前よりご先方から強いご要望をいただいていて」
「……相手方の企業の名前を教えていただいてもよろしいでしょうか」
「株式会社シャボンフロンティアさんです。都内で銭湯のリノベーションを手掛けられている会社さんです」
「いずみさん、ちょっとパソコン貸してもらっていいですか」
壱子さんは、猛スピードでパソコンの画面に言葉を打ち込み、次々に情報を開いていきます。スイッチが入った壱子さんは、まるで青い燐の焔に全身が包まれているようです。
「相手方は何と言ってきているのですか。いつ頃からのことか、差し支えなければ教えていただければ」
壱子さんの目にもやはり、青い焔が宿っています。強い意思の焔です。
「……2年半ほど前、ご先方がうちを引き取りたいと言ってきたんです。ずっとお断りしてきたのですが、年々客足は遠ざかる一方で……。そこに今回のウイルスの影響を大きくかぶってしまったことで、ご先方が『話だけでも聞いてくれないか』と強くおっしゃってこられて……」
わたしは言葉を継げなくなりました。自分の力不足が、悔しい。ただただ、悔しい。
「私ひとりの力ではここまでが限界かと思い、弱気になっておりました。明日のミーティングに向けても、何も知恵が浮かんでこず、どうしたものか途方に暮れておりました。明日で何らかの方向性が決まってしまう可能性もなくはないのですが、壱子さんがご同席くださればたいへん心強いかぎりです」
「……いずみさんは、弦月湯を守っていきたいんですよね?」
「はい」
わたしの答えに、迷いはありませんでした。考えるよりも先に、言葉が飛び出していました。そう、わたしは弦月湯を守っていきたいんだ。おじいちゃんとおばあちゃんの思いがいっぱいに詰まった、この弦月湯を守っていきたいんだ。
「いずみさん、明日の朝までご一緒にお時間いただいてもいいですか?」
「もちろんです。……壱子さん、何か考えてくださるんですか?」
「弦月湯をこのまま残していけるような事業計画を練ります。午後のオンラインミーティングまでに、いずみさんも納得できるような対抗案を作りましょう」
壱子さんは、力強く、そう言ってくれました。わたしは涙が溢れそうになるのを、必死にこらえました。
それからの流れは、みなさまもご存知の通りです。壱子さんは、弦月湯の運営をサポートするための事業を立ち上げてくださいました。いまは、株式会社「弦月湯の縁側」として、弦月湯を媒介として北三日月町一帯を包括的に盛り上げていくお仕事をしてくださっておいでです。おかげさまで、弦月湯で働いてくださるスタッフの方々も多くなりました。
暦ちゃんは、「弦月湯の縁側」の専属デザイナーとして、働いています。そして、公私ともに壱子さんのパートナーとなりました。ふたりの活動に賛同してくださる方々の輪も、年とともに広がってきました。ほんとうに嬉しいことです。
わたしが小説を書くようになったのは、このふたりの後押しがあったからです。ある秋のこと、暦ちゃんから物語を書くことを勧められたわたしは、noteに登録しました。弦月湯の発信も壱子さんがnoteで始めてくださっていたので、なんとなく馴染みがあったのです。
noteがさまざまなメディアと提携して、メディアと作家をつなぐ働きを本格化し始めた時に登録できたことは、わたしにとっては僥倖でした。創作大賞にもひっそりと参加しました。賞を受賞することはかなわなかったものの、とあるきっかけがあって第一作を出してくださった出版社とつながることができました。
最新作となった『一人称のゆくえ』は、弦月湯で出会ってきたさまざまなお客様をイメージしつつ、それぞれの物語に当てはまるような一人称を用いた短編小説集となりました。みなさまもご存知のとおり、日本語には多くの一人称があります。私、僕、俺。あたし、おいら、吾輩。拙者、それがし、自分。どれも、スペイン語に訳してしまえば "Yo(ジョ)" になります。他の多くの言葉でも、同じです。これだけ多くの一人称を持った言葉というのは、とても珍しいことです。
一人称がひとつしかなければ、自身を定義づけようとすることも、もしかしたらもっと楽になるのかもしれません。自身で自身を理解しようとするとき、しっくりこない一人称を使いながら思考し続けることは、とてもつらいことだと思いませんか? 既存の一人称の中に、自身をひもづけたい一人称が存在しなかった場合、自身の人生を肯定するのに時間がかかりうる可能性もあると思うのです。
ご自身の一人称に迷いや戸惑いをお持ちの方に、すこしでも楽になっていただきたい。そんな願いをこめながら、この作品を書きました。それにあたって、わたし自身の半生をこうして振り返るお話をさせていただく機会もこのようにいただき、感謝しております。本日は、誠にありがとうございました。
(つづく)
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つづきのお話
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