小説「一人称のゆくえ」 ─弦月湯シリーズ─ 第4話(最終話)
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第4話
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「ねーちゃん、おかえり!」
「いずみさん、お疲れ様でした」
雑誌のインタビューを終えて帰ってきたわたしを、壱子さんと暦ちゃんが迎えてくれました。肩を並べるふたりの姿を見て、わたしは微笑みます。食卓にはふたりが作ってくれた、サーモンとアボカドのちらし寿司やガスパチョ、オリーブと生ハムの冷菜などが並んでいます。
「すごいご馳走。ふたりともありがとう」
「今日はねーちゃんの新刊刊行のお祝いだもん。壱子さんとふたりで張り切っちゃった。いま、牛肉の赤ワイン煮込みも作っているからね」
暦ちゃんはにっこりと笑います。
食卓につき、壱子さんが選んでくれたというスパークリングワインで乾杯します。暦ちゃんが、てきぱきと料理を取り分けてくれました。わたしが手を出そうとすると、ふたりとも「今日は主役なんだから」というので、なんだか所在なくてモゾモゾとしてしまいます。自分にスポットライトが当たるというのは、昔からどうも慣れていないのです。
「ねーちゃんはやっぱり、物語を書く人になったね」
スパークリングワインが白ワイン、白ワインが赤ワインに替わったあたりで、頬を赤くした暦ちゃんがつぶやきました。
「自分は、いつかねーちゃんは物語を書く人になるってずっと信じてきたんだよ」
「そうなの?」
「うん。子供の頃から、ねーちゃんはずっと静かに本を読んでいた。でも、その本を読む時の顔が、小さかった自分が柿の木に登る時の顔と似ている気がしてたんだ。すごくやんちゃで、内側がめちゃくちゃ冒険しているような顔で、ずっと本を読んでいたんだ。だから、ねーちゃんは、本の中で大冒険しているんだなって思ってた。そして、いつかねーちゃんは、自分の世界の大冒険を伝えていく人になるだろうなって思ってた」
「あら……」
わたしはなんだか恥ずかしくなりました。たしかに、大好きだった「ナルニア国物語」を読む時、わたしは登場人物のみんなと一緒に、ナルニアを冒険していました。洋服たんすの向こうにある、不思議な国。魔法の指輪。たてがみをなびかせる、勇敢なアスラン。どれだけ、アスランのたてがみに顔をうずめたいと思ったことでしょう。
暦ちゃんと「ナルニア国物語」を一緒に読むことはなかったけれど、わたしたちは一緒に冒険していたのね。その思いは、わたしの少女時代に灯火をともしてくれるような気がしました。
「子供の頃の、いずみさんと暦くんって、どんな感じだったんですか?」
壱子さんが赤ワインを傾けながら、尋ねました。
「ねーちゃんは、じいちゃんとばあちゃんに囲まれながら、いつも弦月湯の手伝いをしていたよ。その合間に、本を読んだり、書き物をしたりしていた」
「学校の宿題もやっていたのよ」
「うん、それも知ってる。ただ、番台に座っている時はいつも本を読んでいたなあってイメージ。いまとあんまり変わらないかな?」
「たしかに、そうね」
「自分は……三つ編みおさげでセーラー服を着た中学生だったよ」
「暦くん、そんな時代あったのね」
「うん。子供の頃は、自分のことを『私』って呼んでた。そう呼ばなきゃいけないって思ってた」
壱子さんは、グラスを静かに置きました。わたしも暦ちゃんを見つめます。
「うちのお母さんは、自分に『正しい女の子でいてほしい』って思っていたんだ。だから、髪の毛も伸ばさなくちゃならなかったし、スカートを履かなくちゃならなかった。受験して、正しい女の子たちが正しい生き方を目指している中学校に入ったときは、ものすごくしんどくなっちゃった」
壱子さんも、暦ちゃんの話を全身で聞いているのがわかります。
「そんなとき、ねーちゃんが『何かあったら、弦月湯にいらっしゃい』って言ってくれたんだ。どれだけ、気持ちが楽になったかわからない。あと、女の子らしい生き方ってどんなものだろうって自分が尋ねたとき、ねーちゃんが言ってくれた言葉が忘れられないんだ」
「どんな言葉?」
壱子さんの問い掛けに、暦ちゃんは静かに微笑みます。
「──自分にも『女の子らしい生き方』はどんなものか、わからない。けれど、自分らしい生き方ならわかる気がする。自分の心が快く、心地よくいられる方を選ぶ生き方をすればいいんじゃないかしら……そんなことを言ってくれたって覚えてるよ。だったよね、ねーちゃん?」
暦ちゃんの眼差しに、わたしは胸が熱くなりました。静かに頷きます。
「その言葉に、どれだけ勇気をもらえたか、わからない。あの頃、ねーちゃんがいなかったら、自分はいまどんな生き方をしていたかわからない。もしかしたら、自分が感じていることはいけないことだと断罪して、自分を許せないまま生きていたかもしれない。もしかしたら……途中で生きていくことを放棄していたかもしれない」
壱子さんが、暦ちゃんの手の甲にそっと、手のひらを重ねました。暦ちゃんは、壱子さんを見つめて微笑み、小さく頷きました。
「中学3年生の頃、学校に行けなくなったんだ。そんな自分を見て、お母さんは泣きわめいてた。お母さんの期待に応えられない自分を責める気持ちも湧いてきた。罪悪感も湧いてきた。でも、そんな時も、ねーちゃんの言葉があったから乗り越えることが出来た。そして高校の合格通知が届いた時、それまでずっと伸ばしていた三つ編みおさげを、机にあったはさみでブチッって切った。お母さんには申し訳ないって思ったけれど、これ以上、お母さんの望む『正しい女の子』の人生は歩めない。だから、三つ編みを切って、弦月湯に来たんだ」
──「おねえちゃん、やっと、頭が軽くなったよ!」──
そう言って、頭をぶんぶん振り回していた暦ちゃんの姿を思い出します。
「弦月湯に来て、ようやく自分の心が快く、心地よくいられる方向に、初めて歩みだすことができたんだよ。それは、じいちゃんとばあちゃんもそうだけど、何よりも、ねーちゃんがずっとここにいるって言ってくれたおかげなんだ。三つ編みおさげでセーラー服着てた中学生のときも、弦月湯に行けばねーちゃんに会えるっていうのが、自分の中で大きな救いになってた。あらためて……本当にありがとう」
そう言って、暦ちゃんは頭を下げました。鼻の奥がつんとしました。視界がにじむのを我慢して、わたしは口を開きました。
「お礼を言うのは、わたしの方よ」
「え?」
「暦ちゃん、言ってくれたでしょう。バルセロナに行くのがいいと思うって、あの時言ってくれたでしょう」
ああ、いけない。つい、昔のように「暦ちゃん」って呼んでしまった。暦ちゃんの目が丸くなります。でも、いいわ。このままのほうが、心が快く、心地よいみたいです。
「バルセロナに行くことが、わたしの心にとって、快く、心地よいことだと思うって、暦ちゃんが言ってくれたとき、とても嬉しかった。わたしはずっと、この弦月湯から外に出てはいけないって自分で決めて生きてきたから、暦ちゃんのひとことで、初めて心を自由に羽ばたかせることができたの。ありがとう、暦ちゃん」
「おねえちゃん……」
暦ちゃんの大きな目から涙がこぼれます。ぼろぼろ、ぼろぼろ。真珠のような大きな涙が流れていきます。壱子さんも目を赤くしています。
「いずみさんも、暦くんも、お互いの言葉で自分自身を自由にすることができたんですね」
壱子さんが、そう言いました。暦ちゃんは、なにも言わずに涙を流し続けます。わたしは手を伸ばし、暦ちゃんをぎゅっと抱きしめました。
「暦ちゃん、よかったわね。ほんとうに、ほんとうに、よかったわね」
「……おねえちゃん、ありがとう」
三つ編みおさげでセーラー服を着ていた暦ちゃんが、そう答えてくれたような気がしました。わたしは赤ちゃんをあやすように、暦ちゃんの背中をぽんぽんと軽く叩きました。そういえば、暦ちゃんが赤ちゃんの頃、おばあちゃんがこうやって暦ちゃんをあやす様子を見ては、素敵だなあと思っていたのでした。
暦ちゃんは、わたしの肩に顔をうずめて、涙を流します。懐かしい暦ちゃんの匂いを感じました。壱子さんは、その様子を微笑みながら見守り続けています。夜は、静かに更けていきました。
眠る前に、わたしは日記帳を開きました。子供の頃から毎日つけている日記帳。いつの頃からか、おじいちゃんが使っていた大きなシステム手帳を、日記帳として使うようになりました。書いたリフィルは一年ごとにまとめて、管理しています。
いつかわたしがこの世を去る時には、この日記は全部焼いてもらおう。ふと、そんなことを思いました。自分の心を映した分身をこちら側に残していくのは、なんだか恥ずかしいものです。出来るだけ身軽に、川の向こう側に渡っていきたいと思いました。
わたしは恋をすることもなく、誰かに想いを傾けることもなく、結婚することもなく、子供を持つこともなく、ここまで生きてきました。そうした状態を心地よく感じる自分の感受性には、どこか欠陥があるのかしらと、若い頃には考えたこともありました。弦月湯を次の世代に残していくためには、結婚しなくてはならないかしらと悩んだこともありました。
けれど、誰かと所帯を持つことは、わたしにとっては現実的な選択肢ではありませんでした。わたしはおそらく、世間で求められる「普通」を生きていないのでしょう。そして、「普通」に合わせようという気も起こらないのです。不器用なわたしは、自分自身の人生との折り合いをつけていくだけで精一杯なのです。
でも、不器用なわたしの周りには、暦ちゃんや壱子さんがいてくれます。世襲制という形を取らなくても、次の世代にバトンを受け継いでいく方法を一緒に考えていけるようになりました。どれだけ、心が軽くなったかわかりません。弦月湯も法人化して、スタッフが増えてきたことによって、組織として育ってきています。これからも様々なことはあるでしょうが、きっとこの人たちなら大丈夫と思えるようになりました。
不器用なわたしが書いていく物語。それは、やはり不器用にしか生きられない方々に届けばいいと願います。いつか、暦ちゃんがわたしにかけてくれた言葉のように、どこかの誰かが自由に動き出せるきっかけとなればいいと願います。
日記を書き終えて、ペンを置くと、虫の声が聞こえます。弦月湯の夜は静かに更けていきます。
明日もいい日になりますように。
(完)