小説「ドルチェ・ヴィータ」第1話(全11話)
あらすじ
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第1話
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「……さちほさん、起きてくださいな……起きてくださいな、朝ですよ」
細くて甘い声が私の耳元で囁く。寝返りを打つ。あと五分、五分でいいから。
「駄目ですよ、今朝は定例会議があると言っていたじゃないですか、先週もそんなこと言ってて遅刻したじゃないですか、ほら早く起きましょうよ、祥穂さん」
私の首筋を熱い舌が舐める。くすぐったくて、身悶えする。ざらざらとしたその舌は……ん? ざらざら? 私は思わず目を開ける。
「ああ、よかった。おはようございます、祥穂さん」
そこには、平泉さんがいた。白くてもっちりとして、山吹色の瞳の平泉さんが。平泉さんは私のほっぺたに、自慢の桃色の肉球をぴっとりと寄せてきた。
「早く準備をしないと、今日は週明けですから電車が混みますよ」
「はいはーい」
柔らかい肉球の感覚に幸せを感じながら、私はあくびをして伸び上がる。さあて、今日もがんばるか。
平泉さんと出会ったのは、二ヶ月ほど前のある雨の晩のことだった。その頃の私は、不倫の恋ってやつをひとつ清算したばっかりで、自分自身が棄てられたように思いこんでいた。
何にせよ、恋愛の終わりというのは切なくて、辛い。彼との終わりが近付く度に、私達はこんな諍いを繰り返した。
「いいじゃないか、今までみたいに俺が週末にやってきて一緒に過ごせば。それでずっと、うまくやってきたじゃないか」
「違うの、私はきちんとした『うち』が欲しいの」
「ここだって、きちんとした家じゃないか、何言ってるんだ」
「違う、そうじゃない。あなたにとって、ここは『うち』じゃない。あなたが帰って行く『うち』は、奥さんが待ってるあの家で、私が暮らすこの家じゃないんだから」
そう、彼にとって私が暮らすこの家は、単なる避難場所であって、心安らぐ『うち』じゃないってことぐらい、最初っからわかっていた。わかっていたけど、気付かないふりしている方がうまくいくから、きっちり蓋して、普段は見えないようにしていた。
それでも、こんな関係が三年も続いてくると、心に歪みが生じてくる。私が作ったシチューもカレーも「美味しいね」と言ってくれはしても、最後のひと口は残してしまうのを見るのも、23時半を過ぎたあたりから終電を気にし始めてそわそわし始めるのを見るのも、季節毎のイベントに物わかりいいふりをするのも、つまりは見て見ぬふりをする全ての事柄に、もうすっかり疲れてしまったのだ。好きという気持ち以上に、この疲労は蓄積していたらしい。ひどい風邪で寝込んだ金曜日の夜、「今日は寄らずに帰ります、お大事にね」というLINEと、空気にそぐわない頓馬なウサギのスタンプが来た時に、私の臨界点は超えてしまった。スマホを抱え込んで、声が出ないほどにむせび泣いた。
この人のことは好きだけど、好きだけでは一緒にいられない。私は、私だけの『うち』が欲しいんだ。ただの住処ではなく、『うち』が欲しいんだ。私を待っててくれる、誰かがこの人生に欲しいんだ。私はもう、自分の魂を偽るのをやめにすることにした。けれど、それは居心地のよい避難場所を手放すことと直結していた。正直なところ、私はずるい人間なもんだから、関係を続けたままなんとか出来ないかと画策してみたことも、一時期あった。でも、どうもうまくいかない。それならもう、一切合財クリアにしてしまえ、更地にしてしまえ……と腹を括って、えいやあっと修羅場に飛び込んだ。
でも修羅場をひと通りくぐり抜けてしまうと、何とも言えない心もとなさと、ぽっかりとした寂寥感が私の胸を襲った。三十代も半ばを過ぎてしまった自分なのに、仕事場と家の往復だけでもいっぱいいっぱいなのに、いまさら新しい出会いに向けてあれこれ整えて、恋愛を最初っから始め直すなんてこと出来るのか……そう考えると、目の前に昔のテレビでよく映っていた砂嵐が広がるようだった。金曜日になると、うっかり二人分の料理を作ってしまう癖も、しばらく治らなかった。
そんな冴えない日々を送る中、ある雨の夜、しこたま酔っぱらった私の耳に、細くて甘い声が聴こえた。慌てて周りを見回す。沈丁花の甘い香りに包まれながら、私は声の主を探す。その茂みの奥に、山吹色の瞳が光っていた。白くてもっちりした、育ちのよさそうな猫。なーん、と細くて甘い声で猫は鳴いた。
「おいで、おいで……」
私は茂みの奥に手を差し伸べる。白い猫は喉を鳴らしながら、掌に頭をすり寄せてくる。
「こんなところでどうしたの……すっかり濡れちゃって、かわいそうに……」
猫は、私の掌をざらざらした舌で舐める。この雨の下、世界中にこの猫と私しか、この侘しさや孤独を分かち合えないような気がした。
「よし! とりあえず明日までうちにおいで!」
いったん決めれば、行動は早い。私は猫を抱えて布のサブバッグに入れて、コンビニで猫缶と牛乳を買って帰った。一心に食べる猫の背中を見ながら、いつしか私は眠りについた。
明くる朝、二日酔いで粘っこい口の中を舌でなぞりながら起き上がろうとすると、ベッドの脇に気配があった。見上げると、白い猫がちんまりと座っていた。
「この度はすっかりお世話になり、ありがとうございました」
猫は、細く甘い声でそう告げると、深々とお辞儀をした。
「はあ……」
私はあっけにとられて、もしゃもしゃ頭のまま、つられてお辞儀をする。
「見も知らぬ方の温かいご恩に、心から感謝しておりますが、あいにくとご恩返し出来るようなものはなにもなく……申し訳ございません」
猫はまた、深々とお辞儀をした。私もあわててお辞儀をしかけたところで、正気に戻った。
「ちょっと待って、あなたどうやって喋ってるの……?」
「驚かせてしまい、申し訳ございません。申し遅れましたが、わたくし平泉シロと申します」
猫がまた深々とお辞儀をしそうになったので、私は猫の肩をつかんだ。
「あの……普通は、猫ってなかなかしゃべらないものなんだけど、それって知ってる?」
「はあ、存じております。確かに、以前近所付き合いをしていた仲間たちは、このように人間の言葉はしゃべれなかったものですから、私も慎んでおりました」
「あなたは……平泉さんは、どうして喋れるようになったの?」
「以前に私が一緒に暮らしておりましたご婦人と、意思疎通を図りたいと思ったことがきっかけです。ご婦人はラジオを聴くのがお好きでしたので、私も幼い頃から一緒に聴いておりました。特に夜な夜な流れる『ラジオ深夜便』がお好きで……、ご婦人がお休みになられてからも私は聴き入って、言葉の勉強をしておりました」
「そのご婦人は?」
平泉さんはうつむいた。私達を静寂が包んだ。窓の外からは、ゆうべの雨がまだ降り続く気配が伝わってくる。
「平泉さん……これから行くあてはあるんですか?」
「いえ、あいにくと……」
「そしたら、うちにいませんか?」
考えるよりも先に、言葉が出ていた。平泉さんの山吹色の目が丸くなった。
「で、でも! そんな、見も知らぬ方のお世話になるわけには……」
「いいじゃないですか、これもなにかのご縁。うち、幸いなことにペット可物件だし。それに……」
昨日の夜のことを思い出す。沈丁花の香りの中、この世界中で、この白い猫と私しか、この侘しさと孤独を分かち合えないような気がした、あの雨の夜を。
「……うん、ここに平泉さんがいてくれたら、私が嬉しい。だから、どうかいてください」
私は、深々とお辞儀をした。ややあって、平泉さんがお辞儀をする気配が感じられた。
こうして、私と平泉さんの奇妙な同居生活が始まった。
「祥穂さん、春のコートに換えるんだったら、ポッケの中のSuica忘れないようにしてくださいよ」
「だいじょーぶ、昨日取っ替えたままだから!」
「青汁は飲みましたか」
「いま飲んでるとこ」
「もうちょっと余裕を持って起きれば、朝ご飯もゆっくり食べられるでしょうに」
「はいはい」
なんだかおばあちゃんと暮らしてるみたいだな、私は子供の頃を思い返して微笑ましくなる。猫缶を開けて、かつおぶしを上からふる。
「いつもの通り、カリカリはダイニングの方に置いとくからね」
「ありがとうございます」
平泉さんは律儀にお辞儀をする。
「こちらこそ」
私も平泉さんにお辞儀をする。平泉さんの山吹色の瞳の中の私と、目が合った。ちょっと笑って、平泉さんの背中を撫でる。
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
平泉さんの細く甘い声に見送られて、私は玄関を勢いよく飛び出していく。桜の花びらが舞い込んでくる。
(つづく)
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つづきのお話
・第2話はこちら
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・第4話はこちら
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・第6話はこちら
・第7話はこちら
・第8話はこちら
・第9話はこちら
・第10話はこちら
・第11話(最終話)はこちら
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