小説「駒込珈琲物語」第6話(全18話)
ゴメスの背中を見送って、私は霜降商店街に足を向けた。心の動く本が、自分にとって旬の本──そう言ったゴメスの言葉がリフレインしている。
2月の晴れた空は、まるで忘れな草の花のような淡い色をしていた。私は思いっきり伸びをして、歩き出す。通り過ぎる人たちが、みんな優しい表情をしている。私は微笑みを浮かべた。
やがて、霜降商店街の入り口に着く。エネルギッシュなスーパーのたじまは、今日もたくさんの人で賑わっている。その様子を横目に、不思議な「し」のキャラクター、「しーちゃん」が飾られた商店街の入り口をくぐる。そう、お目当てのフタバ書店は、たじまのすぐ奥にある。
控えめに、音を出来るだけ立てないように気をつけながら、扉を開ける。店内とご店主の静けさに迎えられ、ゆっくりと深呼吸する。
私の住むマンション、ヘーヴェ駒込の大家さんであるマダム澤松は、このフタバ書店の本の品揃えが、とても品があって好きだと言っていた。
「ご店主の選ばれる本がね、眺める度に、なるほどなあ……という品揃えなのよ。じっくり見てみるといいわよ」
そんなマダムの言葉を思い出して、私は店内をぐるりと見回す。小説に雑誌、そして奥には時代小説。本棚が時間をかけて大事に作られてきたことが、よくわかる。
お目当てのドナルド・キーン先生のご本は、入ってすぐのところに特集コーナーで飾られていた。微笑むキーン先生のお顔が大写しになった写真が表紙の本、そして先生の書かれた日本文学のご本も多く並んでいる。私は、その愛情深く作られた書棚の前で立ち止まった。
と、2段目あたりに飾られていた本が目に飛び込んできた。濃い紅色のドレスを着た女性が左側にいて、右側にいる眼鏡のキーン先生と向かい合うイラストが描かれている。『ドナルド・キーンのオペラへようこそ!』という題名。金色で記された「われらが人生の歓び」という副題を見て、オペラやバレエの舞台美術を担当し、世界の第一線を走り続けてきたマダムの顔が浮かんだ。
気がついたら、その本を手に取って、レジの前にいた。物静かなご店主からお釣りと、本の入った袋を受け取る。心が動くって、こういうことかな、ゴメス? 心の中で問い掛けてみる。心の中のゴメスは、ふっくらした顔でにっこり笑って、甘く可愛らしい声でニャーンと鳴いた。
その足で、たじまの前を通り過ぎ、マダムが教えてくれた緑の多い素敵なカフェに向かう。MIDDLE GARDEN COFFEE STAND、ミドルガーデンコーヒースタンドか。でも、「ミドルガーデン」って、一体何の真ん中の庭なんだろう?
いきなりステーキの角を向かい、小径に入る。暖かい木の看板が、蜜柑色の光に照らされている。どうやら、ここらしい。
扉を開けると、そこにはマダムが言ったように緑がたくさんの空間が広がっていた。人々は談笑したり、本を呼んだり、パソコンに向き合ったりしながら、ゆったりと流れる時間を楽しんでいる。そこには、とても居心地のいい空間が広がっていた。
おずおずとカウンターに進み、メニューを見る。ケニア、グアテマラ、コスタリカ……たくさんの種類の豆も楽しめるみたい。けれど初心者の私には、どの豆をどうやって楽しめばいいかがわからなくて、ひとまず間違いのなさそうなブレンドと、マダムが推薦してくれた林檎とゴルゴンゾーラチーズのトーストを注文する。
席について、パソコンと書類を広げようとして、その手を止める。ゆったりとした時間の中で、自宅と同じようにゴリゴリと作業を進めようとする自分の行動が、なんだかひどく無粋に思えたのだ。
私はパソコンを閉じ、書類をその上に置いて、さっきフタバ書店で買った『オペラへようこそ!』を袋から出した。最初の目次から読もうとしたけれど、思いきって、目を閉じて、ぱっと開いたページから読み始めることにした。
ぱっと開いたページには、「ビルギット・ニルソン」というタイトルが記されていた。ニルソンって何?と思って読み進めてみると、どうやらオペラ歌手の名前らしい。ヴァーグナーとか、ベートーヴェンの《フィデーリオ》ってオペラの主役とか、エレクトラとか、トゥランド姫とかを歌った人みたい。トゥランドは、トゥーランドットとも言うみたい。
「トゥーランドット」って、なにか聞いたことあるけれど、思い出せない。なんせ、私は音楽を聴くと言ったら、祖父の影響で演歌一辺倒なんだもの。オペラなんて、マダムと知り合ってから、初めて興味を持つようになった。
そう考えると、自分が今、オペラの本を開いていることがとても不思議に思える。駒込に来ることがなければ訪れることのなかったカフェで、これまでの人生で開くことがなかった本を読んでいる。それも全て、巡り合わせなのかもしれないな、と思う。
本を閉じて、裏表紙を眺める。鮮やかな緑の帯には、こう記されている。
「オペラは一生のものです。同じオペラを何回観ても、いつも新しい発見と感動があります。それが本物の芸術の証だと思います」
本文の中から引用された言葉のようだ。ジャンルは違うけれど、私もひばりさんの歌や、サブちゃんの歌を聴くと、幼い頃から体に沁み込んでいるのにも関わらず、時によって言葉やメロディーが胸に激しく迫ってくることがあるのを思い出した。キーン先生が感じてたのは、それよりも深くて強い感動ってことなのかな。私は興味を惹かれた。
思い立って、マダムのLINE画面を開く。キーン先生のご本の表紙を写真に撮って、送る。そして、メッセージを添える。
「フタバ書店さんで、こんな本を見つけました。ぱらっとめくってみたら、ビルギット・ニルソンというオペラ歌手のことが気になり始めました。あと、本の中で見つけたトゥーランドットってオペラも気になります。たぶん名前は聞いたことがあるような気がするのですけど…いったいどんな内容ですか?」
画面を閉じて、ふう、と深い息を吐く。マダムは自分が関わってきた仕事について、積極的に話してくれたことはなかった。私も、こうして尋ねることはなかった。マダムが大事にしてきた領域にどこまで立ち入っていいのか、分からなかったから……というのが大きい。
でも、このLINEを送って、遠巻きに眺めてきた扉のノブにとうとう指を伸ばしたような気がした。私の胸は、どきどきしてきた。
(つづく)
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