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小説「駒込珈琲物語」第13話(全18話)

「えっと……栞さん、もしかしたら〈こまごめ楽座〉検討してくださいますか?」
「まだ確約は出来ないのですけど、ちょっと上の方に話を通してみます」
「すごい、栞さん、行動はやっ!」
「だって、面白そうじゃないですか」

 そして、私は、自分が大きく笑っていることに気付いた。なんだか、面白いことが始まりそう。

 カフェ・ポート・ブルックリンでのそんなやり取りを思い出して、笑みが広がるのを感じた。あれから、企画書を作成して、週明けには部長に打診してみた。先日の会議で議題に上がっていた、東京23区内に出店を考えているという自社製品のアンテナショップに向けての可能性と、市場調査を兼ねて提案してみたところ、文京区・豊島区・北区の3区のカルチャーがゆるやかに混ざり合う駒込の土地柄にも注目されて、〈こまごめ楽座〉への出店企画は水曜日にはGOをもらえた。

 早速、晴美さんに報告すると、驚きと共に喜んでくれた。そして〈こまごめ楽座〉に向けて、打合せをしていくことになった。その打合せに指定されたのが、意外な場所だった。

「栞さん、ここ、ここ、ここよー!」



 木に包まれたベンチに腰掛けて、晴美さんがぶんぶん手を振っている。そう、晴美さんが打合せ場所に指定したのは、旧古河庭園だったのだ。私は、額ににじんだ汗をタオルハンカチで抑えて、手を大きく振る。10月になったとはいえ、快晴の午後はやはり暑さが残る。

「お待たせしました」
「いえいえ!」

 晴美さんが、明るい笑顔で応える。やっぱり、ダリアの花みたいな笑顔だ。私も、つり込まれて笑顔になる。

「旧古河庭園、実は初めて来ました」
「そうだったのー?」
「ええ。六義園には何度か行ったことはあるんですけど」
「もったいない! せっかく駒込に住んでいるんだから、駒込暮らしを満喫しなくっちゃ! 私なんて、外回りの合間に来て、気分転換とかしちゃうから、年間パスポート持ってるのよ」
「年間パスポート、あるんですか」
「うん、しかも600円。4回行けば、元が取れちゃう」
「なんてお得」
「でしょ? しかも普段は比較的空いてるから、のんびり気分転換するのにいいのよ。もうちょっとすると、秋バラが見頃になるんだけど、今はその前の準備期間ってとこみたい」
「へえ……」

 私は園内を見回した。庭園の向こうには、雰囲気のある洋館が建っている。この洋館の見学ツアーもあるらしい。確かに、写真で見た薔薇と洋館の組み合わせは、何とも風情のあるものだった。咲いたら、綺麗だろうな。

「向こうには、売店もあるんですね」
「うん! バラのアイスとかもあるのよ、食べてみない?」
「あ、食べてみたいかも」
「食べよ、食べよ!」

 晴美さんに押される形で、薔薇のアイスを食べることになった。「私が誘ったから、いいよー!」と、晴美さんがアイスをおごってくれた。素直に甘える。薔薇のアイスは、ほんのりとした紅色で、アイスというよりもシャーベットのようだった。口に入れると、ほんのりと甘く、薔薇の優しい香りが鼻腔に広がった。



「美味しいですね、これ」
「でしょ? 他に、シューアイスもあるし、羊羹とかもあるのよ」
「さすが、薔薇の館ですね」
「ね! こんな素敵な洋館と庭園がある駒込って、ほんといい街だなーって思って」

 晴美さんは、何かを懐かしむような眼差しで芝生を眺めた。

「私の田舎は茨城の大洗でね、ずっと海と市場の近くで育ってきたの。電車もローカル線が通ってるだけ。そんなのんびりした町で育ってきたもんだから、最初に東京に出てきた時には、情報量の多さにびっくりしちゃった」
「情報量の多さ……分かる気がします」
「うん。電車だってさ、たとえば中央線を乗り過ごしたから、次の電車までうどんでも食べて待とうかなーって思って注文したら、すぐに次の電車来ちゃうんだもん。ほんと、あれって、びっくりした」

 私達は笑い合った。笑いながらも、私も自分が東京に出てきた時のことを思い出していた。大学に入学してすぐの頃、乗換の新宿駅で迷子になってしまったこと。新宿駅の西口から東口に出ようとしても、辿り着くことが出来なくて、半泣きになりながら駅員さんに道を尋ねた時のこと。当時の思い出は、今もどこかに、古い火傷の跡のように残っていて、たまに疼いて苦しめる。その火傷の跡は、おそらく晴美さんの中にもあるのだろう。

「不動産の仕事するようになって、色んな街を見てきた。でも、駒込に勤めるようになって、山手線の中なのに、こんなに静かな街あったんだー!って、感動しちゃったの。なんか、いい意味でエアポケットみたいで、すごく豊かな時間が流れてて。だから、駒込の魅力にどっぷり浸かりたいって感じ」
「わかります、それ。駒込って余白が大事にされている感じで。その余白が、豊かな時間を生んでるんじゃないかなーって」
「栞さん、文学的ー」
「いやいや」

 薔薇のアイスを口に運ぶ。冷たい甘さが広がる。風が吹き抜けて行く。

「〈こまごめ楽座〉はね、そんな駒込へのオマージュなの。私が好きになった駒込を、もっとたくさんの人に、深く好きになってほしい。そして、魅力を感じて、駒込の沼にはまってほしい」
「沼、確かに」
「でしょー? 駒込沼は、深いのよ」
「うん。だから、成功させましょう。〈こまごめ楽座〉」



 晴美さんは、はっと胸を衝かれたような表情をした。そして、ダリアの笑みを広げた。

「ありがとう、栞さん」

 私も微笑んだ。10月の風が吹き抜けて行った。








(つづく)






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