小説「駒込珈琲物語」第2話(全18話)
「どうしよっかなあ……」
私は困り果てて、空を仰いだ。11月の日曜日の午後、小さな公園では子供達は笑い声を上げて駆け回っている。ひとまず腹ごしらえをしようと、駅前のパン屋さんで買った卵サンドを出して、ぱくりとかじる。さあ、ここからどうしよう。本気で考えなくては。
初めて駒込に降り立った日曜日の次の週末から、私の物件探しは始まった。まずはいくつかの不動産屋さんを並行して回り、どのお店が相性が良さそうかしら、というところから探し始めた。その結果、人柄のいい担当さんのいるお店と巡り会い、あれこれとやり取りを進めてきた。
メールでいくつかの候補を出してもらって、見学を繰り返しているうちに、ここは素敵!という物件に巡り会った。築年数は古めだけど、駅も近く、リフォーム済みで、線路の近くの桜を見ることも出来る。それに、敷金・礼金がなしだという。担当さんのプッシュもあり、ここにしよう!と決めて、書類を書いて、審査を待った。
しかし、その後がどうもうまくいかなかった。敷金・礼金はなしでいいというその物件の大家さんは、契約条件として3ヶ月分の家賃の前払いを請求してきたのだ。担当さんも間に入って調整してくれたものの、大家さんはその条件を頑として譲らない。その他、請求される別途の費用も膨らんでいき、私はすっかりこの大家さんのことを信用出来なくなってしまった。物件は気に入っていたものの、仕方なく、まっさらに戻して考え始めることにした。
担当さんも申し訳なさそうに、新しい物件を色々紹介してくれた。そして今日、ようやく、やっとのことで、気に入った物件を見つけた。見学を終えてから、担当さんが管理会社に電話をかけている間、出されたお茶を飲みながら安堵のため息をついた。しかし、電話口の担当さんの様子がおかしい。どうも、交渉がスムーズにいっている気配がない。身を硬くして待っていると、担当さんがハンカチで額を押さえながら、申し訳なさそうに戻ってきた。
「堀口様、申し訳ございません。先程の物件なのですが、今日の午前に見学された方が先に申込みされたそうで……堀口様は第2希望での受付ということになります」
「え、それは、この物件に入れない可能性が高いということですか?」
「ええと……午前の方の審査が降りない場合に、次の段階として、堀口様の審査に移られるということになります」
「つまり、午前の方の審査が通過した場合は、そのまま、その方で決まりということですよね?」
「そうですね……誠に申し上げにくいのですが、そのようになります……」
私は、大きくため息をついた。まさか、そんなことになるとは。私は、ぬるくなったお茶を飲み干した。味はしなかった。
平謝りの担当さんに見送られて、私はとぼとぼとJR駒込駅の北口に向かう坂を登った。これからどうしよう。すっかりあてがなくなって、私は頭が真っ白になっていた。更新手続きまではあと2ヶ月半。叶うことならばあと半月以内には、今の部屋の退去手続きをして、引越しの準備に入りたい。けれど、肝心の新しい部屋が決まらないことにはどうしようもない。胸のつかえを吹き飛ばせないかと願いながら、私は何度目かの大きなため息を吐き出した。
このまま山手線に乗る気にはとてもなれなくて、私はあてもなく歩き続けることにした。南口のバスターミナルまで来て、ぐるりと見回すと、線路に沿って小さな道路が走っているのに気がついた。そういえば、この道路を下ったことってなかったな……と思って、歩き出す。どうせ、今日はもう何もあてがないのだ。少しぐらい冒険したって、いいだろう。
道路を下っていくと、そこにはもう一つ、JR駒込駅の出口があった。そっか、ここが東口か……と思い至る。JR駒込駅には北口・南口・東口、3つの出口があると聞いてはいたものの、お世話になっている不動産屋さんは北口にあるので、東口に降りたことはこれまでなかったのだ。右を見るとドラッグストアと牛丼屋さん。左を見ると、なんだか人通りがたくさん。少しきょろきょろして、なんとなく左側に進んでみることにした。
駅前にあった美味しそうなパン屋さんに惹かれて、お店イチオシの塩バターパンと、個人的に大好きな卵サンドを買う。小さいけれど居心地のいい通りを物珍しく見て回る。北口とも、南口とも、また雰囲気が違う。雰囲気のいい居酒屋さんがたくさんあるのね。から揚げ専門店なんてのもある。
最初の出会いでインパクトが強い「しもふり」の商店街、霜降銀座商店街とは違うけれど、この通りの近くもなんだか暮らしやすそうだな……と感じる。Googleマップで調べてみると、この通りから霜降銀座商店街はそう遠くはないみたい。
Googleマップはこの近くに公園があることを示していたので、さっきのパン屋さんで買ったパンをそこで食べようと思い立つ。通りの出口のところにあったセブンイレブンでホットコーヒーを買って、地図を頼りに公園に向かう。
そして、冒頭にループする。11月の日曜日の午後、小さな公園では子供達が笑い声を上げながら走り回っている。卵サンドを食べながら、その様子を見るともなしに眺める。鳩が足元にやってきたので、パン屑を遠くに放る。首を忙しく動かしながらパン屑をつつく鳩を眺めて、これからのことを考える。心が重い。深いため息をついて、曇り空を見上げる。
気持ちを切り替えようと、セブンイレブンで買ったホットコーヒーを啜る。すると、予想外に香りが鼻腔に飛び込んできて、びっくりした。コンビニのコーヒーも、随分美味しくなったんだなあ、と感心する。珈琲の香りで少し、心が軽くなった。
ため息ばかりついていても、仕方がない。私は立ち上がり、公園の回りをぐるりと見回した。駅から近いけれど、すごく落ち着いた住宅街なのね。地元の信用金庫もあって、綺麗なレモンイエローの建物もあって……レモンイエロー?
そう、信用金庫の隣には、落ち着いた住宅街には似つかわしくない、色鮮やかなレモンイエローの建物が建っていた。興味を惹かれて、近付く。レモンイエローの外壁に、ベランダは白い塗装。高さは4階建てで、入り口には丁寧に手入れされた可愛らしい花壇がある。そして扉の色は、温かみのあるサーモンオレンジ。壁を見ると「ヘーヴェ駒込」と書かれている。まるで外国のおとぎ話に出てくるような、可愛らしい外観にひと目惚れしてしまった。
「うちのマンションに、何か御用ですか」
振り返ると、そこにはロイヤルブルーのセーターを着た、銀髪のショートカットの女性が、フランスパンの入った袋を抱えて立っていた。ワインレッドの口紅が、凛としていた。
これが、私と〈マダム〉こと、澤松さんとの出会いだった。
(つづく)
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