はじめのはじめに 以下の文章は、2019年11月に発行した同人誌「恋リア研究2019-2020」に掲載したものです。内容的にはその時点に準拠しています(「オオカミシリーズ」はその後2024年まで制作されています)。もともとはこのnoteの過去記事に書いてきたことを再編集および加筆したものです。 現在AbemaTVで配信されている最新シリーズ「キミとオオカミくんには騙されない」#8(2024年9月29日配信)で、新たなルールとして「役割解除」があるということが発表され
Twitterの自分の「質感」関連ツイートまとめたメモ 「ケミ」も気になるけど「質感」という語の使われ方も気になる、VTuberファンとか聖地巡礼とかの人が使う意味とも少し違う気がする。「現在につねに追憶が含まれている」みたいな今っぽい感覚とも関係ありそうな 「身体性/経験性を伴ったリアリティ」という意味での質感と、「テクスチャ/肌触り」さらに「印象/コンセプト」という意味での質感がある(さらに入り混じってる)? ちゃんと考えると難しそう 「質感」調べてもまだよく分から
フィクションとされるもの(例えばドラマ)とリアルとされるもの(例えば恋リア)の違いに、台本があるか否か(本当の感情か)と終劇があるか否かというのがあって、それは「真実の恋」みたいな理念における縦と横/激情と持続、つまりは一瞬と永遠の問題にそのまま呼応していることに気づいた Abema恋リア一番人気のオオカミシリーズは、リアリティと言いつつどうせ嘘(台本がある)なのでは、という話を逆手に取って、(人狼ゲームをモチーフにしつつ)絶対に恋しない/相手を騙す「オオカミ」がメンバーの
「裏切り」とはそもそも何をそう呼ぶのかについて、不実・不公平・ルール違反・怠慢・非倫理・他害…みたいにいくつか挙げてたのだけど、興味深いのは不徳だけでなく、「期待した美徳を持ち合わせていない」ことさえもそう呼ばれる場合があって、例えばアイドルは怠慢だけでなく、成長を望みそのために努力する態度が見て取れないという非難もたびたび起こる。単に上記事項に抵触しないだけでなく、より真面目で、より裏表なく、より他を思いやり、より研鑽していないと「裏切り」と呼ばれてしまう状況にありながら、
VTuber題材小説におけるコメントストリーム描写の不自然さ、平田オリザ言うところの会話描写の不自然さ(家族の会話なのに「そういえばお父さんの職業って…」みたいな)とはまた条件がおそらく違ってて、コメントストリームなりの自然さというのは検討する余地があるのかも コメントストリーム内の応答やボケとツッコミみたいなのを、小説では流れや分かりやすさのためにたびたび一対一で併置していて、しかし現実のストリームでは間に無関係のコメントが挟まったり、一対多だったりそもそも拾われなかった
定延利之『コミュニケーションと言語におけるキャラ』を読んでいるのだけど、コミュニケーション行動と意図について以下のような文が出てきた。 人間は社会的な動物であり、日々、群れの中でお互いを評価して、他者から下される評価に舞い上がったり落ち込んだり、一喜一憂して生きている。他者からの評価にはさまざまなものがあるが、ここでそれらを技能評・作品評・人物評と3つに大別する (中略) 人物評は「意図となじまない」という特質を持っている。たとえば、「あの人は豪快な人だ」と皆で言い合っ
「運命の人」と言うとき、その対象に得恋するか失恋するかはまさに「運命的」な結果ではあるが、たとえ失恋したとしても諦めるか想い続けるかは主体的に選択できる。しかし「運命の人」その人は、自身が相手にとって「運命的」であることを拒否できない。オオカミくんシリーズにおける「オオカミ」も、この「運命」に似た立場にあるように思う。 (もちろん後述の話とは違って、「運命の相手」はそう呼ぶ相手を振ることはできる。しかし「自分は運命ではない」と言い張ることはできない。この不自由さが、さらに「
『儀礼としての相互行為』の第六章「アクションのあるところ」では、ギャンブルやカーレース、あるいはバーでの誘いといった投機的な場においてのふるまいについて書いている。そういった場においての「アクション」で、自己呈示として例えば勇気・不屈・誠実・冷静といった「性格」が表される、という話だと読んだ。 性格はギャンブルの対象みたいなところがある。すなわち、たったいちど良いところを見せると、それがすべてをあらわすと受け止められ、いちど悪いところを見せると、それを簡単には言い訳でき
とりあえず自分用。随時更新。おすすめあったら教えてください。 メディア・映像『アイドル/メディア論講義』西兼志 『メディア社会論』辻泉・南田勝也・土橋臣吾/編 『「テレビリアリティ」の時代』大見崇晴 『映画は社会学する』西村大志・松浦雄介/編 (「テラスハウス」について言及あり) 『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』想田和弘 『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(想田 和弘):講談社現代新書 製
(いつものようにあんまりまとまってないですが) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/68/1/68_102/_pdf より以下引用 さて,以上,ミード=ブルーマー,ベッカー,ゴッフマンの議論を経ることで「自己」について考えるために蓄積されてきた半ば理論的で半ば経験的といってよい概念の変遷や力点の変化を確認してきた.まず,私(I),役割を担う対象としての「自己」(=me),対面的相互行為で自己や相互行為を支える「人格(人物)
『ポストドラマ時代の創造力』を読んでいるのだけれど、演出家のロメオ・カステルッチが、作中の「私は〇〇です」と「私の名は〇〇です」という台詞の違いを述べていた。 私が「私の名はカステルッチです」と言った場合、この名前が私にとって異質なものであること、別の誰かによってこの名前が私に与えられたことを自ら認めることになります。(中略)冒頭の場面で私は自分の名前を名乗った直後に犬に襲われます。これも名づけられることと現実との強烈で暴力的な関係を示しています。人間はこの世に生まれ落
今期オオカミくんでは前述のように、個々が主役となる映像作品を撮ることが課題となっていたけれど、いくつかトリックアート的な手法を使っているものがあった。遠近法の錯覚などで巨人や小人になったりみたいな。考えてみると今期以前にも、オオカミくんシリーズではデートでトリックアート美術館に行ったり、例の影絵のシーンのように、トリックアート的なものに触れたり表現したりする場面が出てくることが多い。 リアリティショーというもの自体が、そこに事実としてそのできごとが起こったかどうかというよ
2011年12月発行の同人誌『What Is Idol? vol.6』(発行:No Knowledge Product)に寄稿した文章が出てきたので、載せてみます。 「HOPE OF 2012」というお題でした。 ------------- 安本彩花は不思議な人だ。のんびりゆるゆるしたMCや、エビ中のキャッチコピー「キングオブ学芸会」を象徴するようなステージングは初見の人を一度で惹きつける。風雲急を告げてるらしいアイドル戦国時代で、台風の目のなかに在るかに思える穏やか
匂いが映像に残らないように、オオカミくんであること(恋愛を禁止されていること)も、ムービーとして記録されたものには残らない。「リアル」では決して成立しえない(こととされている)関係も、映像でピン止めすれば有ったことになるのかもしれない。 先週配信の#10では、メンバーの一人がずっと気持ちを向けている相手を指名してムービーを撮るエピソードが描かれた。その際に彼は相手にひとつの指定をする。「まだ少しでも可能性があったら」ラストシーンでその場にいてほしい、そうでなかったら去って
答えはシンプルで、キャストが本人としてそのまま参加していることにあると僕は考える。多くの場合、キャスト達はInstagramやTwitterといったSNSアカウントを持っており、我々視聴者との距離感は非常に近い。それゆえにリアリティーショーはキャストの実在性によってリアルさが担保されているのである。 「リアリティーショーにおけるリアリティーとは何か」の回答、意外と文句をつけづらかった。その上で、「実在性」というのが実際は「InstagramやTwitterといったSNSア
アプリゲーム「欅のキセキ」(現在は「欅のキセキ/日向のアユミ」)が出た時(2017年10月)の感想、前に誰かに話したのだけど備忘として。自分では最初の数か月無課金でプレイしただけ。 「ストーリー部分」というのが、例えばサイマジョのMV撮影とか、お見立て会/おもてなし会とか、初の大型ライブ(有明コロシアム)や紅白もあったのかな? がそのまま出てきて、実際に番組や雑誌で語られているエピソードも出てくる。その上で、「おもてなし会の直前、楽屋で緊張するメンバーと……」みたいな会